スマホの方は、文章エリアを右スワイプで続きが表示されます。縦画面&拡大がおすすめです!
――恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです――
太宰治の「人間失格」はこの冒頭文から始まりますが、僕という人間の過去を振り返るのにもこれほど適した言葉はないでしょう。今、この場所に立つまでの僕の生涯も、彼に負けず劣らず赤っ恥の連続でした。
親の庇護から離れ、初めての社会生活を送る場所、幼稚園。僕のダメ人間としての歴史は、「あまりにもお片付けができない」という理由で園長先生に親を呼び出されたところからスタートしました。多少の差はあっても幼稚園児なら誰でもお片付けなど苦手なのでしょうが、数多の園児たちにふれてきたプロの目から見ても、どうやら僕のその能力のなさは群を抜いていたようでした。この時の園長先生の懸念はのちに、彼女自身想像すらしなかったであろう形で現実のものとなります。
小学校時代には、そこに主体性の欠如が加わりました。いじめっこたちの誘いを断れず、一人のクラスメイトをボコスカにいじめる毎日を送りました。
そしてついにある日、たまりかねたいじめられっこが親に相談し、学校側に報告があったことから僕はまたしても親同伴で学校に呼び出されることになりました。元来気弱な僕は泣きながら彼に謝りました。その帰り道、
「泣くぐらいなら最初からしなさんな!」
という母の罵声が浴びせられました。泣きじゃくりながら謝る姿は、我が子ながら情けなかったようです。
中学生になると今度は一転、いじめられる側にまわりました。何をされてもうつむき、抵抗の一つもできなかった僕は格好の標的だったことでしょう。以降、十数年に渡って僕を苦しめることになる引っ込み思案はこの時期に産声をあげました。
どうやらこの時期は当時の僕にとってかなりつらかったようで、この頃のことはあまり記憶にありません。学校の間取りなんかはそれなりに覚えているのですが、そこでどんなことがあったか、どんなことをしたか、といったことはほとんど思い出せないのです。認めたくないほどつらいことがあった時、人間は自己防衛のためにその記憶をシャットアウトする、というのはどうやら本当のようです。もしこの時に運命の歯車が少しでも狂っていれば、僕の名はもしかしたら 「最初の多重人格者」として有名なビリー・ミリガンより先に人の口に上っていたかもしれません。母親は、今度はいじめられる側の保護者として呼び出されました。
高校に入ると少し風向きが変わってきました。中学校時代を自分の殻に閉じこもって過ごしてきた僕は、どうやらその間に人とは少しちがう世界を作り上げていたようで、自分のなかでは当然な言動をすると、なぜか笑いを取れることがあったのです。
よし、これを前面に押し出してクラスの人気者になろう! ・・・と思ったのですが、これがなかなかうまくいきませんでした。考えてみれば当然のことです。周囲を笑わせる(笑われる?)ことはできても、ごく限られた友人以外とは雑談もまともにできなかったのですから。「笑いを取れる」というだけで一目置かれる大阪という土地柄、いじめられるようなことはなくなりましたが、だからといって人気者になれるわけもなく、唯一ともいえる僕の武器はいつしか宝の持ち腐れになっていました。「笑い」という黄金の右を持っていたところで、「さりげない会話」という左ジャブがないことには、世界どころか高一の一学期を制するのも難しいのです。今も昔もこれからも、人づきあいにおいて僕は永遠の4回戦ボーイであり続けることでしょう。
それでは学業の方はどうだったかというと、これも最低でした。高校生活を通じると現国こそ平均点あたりを行き来していましたが、それ以外は平均点未満であることがほとんど。特に理系学科は学年でも最後方集団、そしてたまには最下位争いで栄冠に輝くこともあり(物理と化学と数学全般が特に苦手でした)、目も当てられないほどの惨状でした。
こんなこともありました。高校一年の時、代数だったか数Ⅰだったか基礎解析だったか記憶も定かではありませんが、僕は中間テストの数学で0点を取ったのです。五十分間真剣に問題に取り組みました。名前もちゃんと書きました。なのに0点。そして、その結果「仮進級」という勲章も頂戴しました。これは要するに「通年の単位を落としているけど、面倒くさいからとりあえず進級させて単位は後で取らせたるから有り難く思えこのアホが」という制度です。学年主任の先生が面倒くさがりでなければ留年していたのです。病弱だったわけでもグレていたわけでもなく出席日数は十分、ただ純粋にアホであるがための(本来であれば)留年。なかなかないと思います。またしても親が呼び出されました。さすがの僕も、この時ばかりは自分の将来が不安になりました。
せめてスポーツでもできたなら、また別の人生が展開されていたかもしれません。が、所属していた野球部では、天が自分になんの才能も授けてくれなかったことを悟ったにすぎませんでした。そもそも逆あがりもできない運動オンチだというのに、何を血迷って硬式野球部などに入部したのでしょうか。引退するまでに放った安打の数は0。打率0割0分0厘。公式戦はもちろんのこと練習試合に紅白戦、試合の形式を問わず出番はほぼ与えられることなく、全員参加の遠征ではバスに揺られて行って帰ってくるだけ。我ながらなんのために所属しているんだろうと思いました。
高校球児の集大成であり桧舞台でもある、三年夏の高校野球選手権大会。背番号をもらえる理由などあろうはずもなく、僕に与えられた居場所は観客席の最上段でした。グラウンドを見下ろすその席からは、地方予選に挑むチームメイトの勇姿が必要以上によく見えました。最後の試合に負け、悔しさにむせび泣くナイン。そのかたわらで、僕はベンチに入ることすら許されなかった己のふがいなさに涙しました。
なお、これは余談ですが、二年時には近くで素振りをしていたチームメイトが手を滑らせて飛ばしたバットが僕の顔面を直撃し、一ヶ月近く入院して勉強が遅れ、アホにさらなる拍車がかかる、といったこともありました。診察に当たった医者は「キミ、この怪我でよく生きてたな」と言ってくれました。生物は下等なほど生命力が強いのです。当時よりましにはなりましたが、額と左まぶたを縫った傷跡は完全には治らず、今でもくっきりと残っています。
三流私大でしたが、僕はなんとか大学に進学できました。が、新しい環境に身を置いても、性格は上向くどころかますます下を向くばかり。僕はここでもダメ街道を爆走するのでした。
入学してしばらくはバイトをし、授業にも出、野球サークルなんかにも顔を見せていましたが、結局重度の人見知りが災いして友達の一人もできず、一年もしないうちに学校に行かなくなりました。入学前に抱いていた「バラ色のキャンパスライフ」など、僕の性格ではどだい無理な話だったのです。
そして、僕は自室に引きこもることになりました。劇的なきっかけはなかったと思います。なるべくしてなった、というところでしょうか。学校は楽しくないから行かない。仕送りがあるのでバイトはする必要がない。必然、僕にとって最も楽しい場所はテレビとパソコンと布団とティッシュがある下宿の自室であり、一般的に青春時代とされている日々は食っちゃ寝とゲームに消費されていきました。二次元萌えという名の修羅道に堕ちたのもこの頃です。ときめきメモリアルの詩織に骨抜きにされ、巨大な5インチフロッピーをがっちゃんがっちゃん入れ替えながらドラゴンナイトに没頭し、気がつけば朝・・・というのが日常でした。
そうこうしているうちに体に変化が起きました。どちらが縦か横かわからないほど丸々と太ってしまったのです。こうなるとますます外に出なくなります。人が自分を見て笑っているような気がするのです。他人の目など正視できたものではありませんでした。本格的な引きこもりの開始です。外出するのは人目に触れない深夜、それもコンビニへ食料の調達に行く時だけ。暗い部屋のすみっこで世を儚み、己の不遇を嘆き、人を羨み、憎み、妬み、しかしその一方で自分をはじき出した社会に受け容れられたいと願う毎日。半年以上におよんだ、誰とも会話することのない生活。以前からの引っ込み思案と、クリスマスの時期にカップルを刺し、動機を「幸せそうだったから」と供述する通り魔のgjっぷりに目を輝かせるようなネクラ思考は、この期間にしっかりと根を張ってすくすくと成長していきました。そんな妖怪人間さながらの生活は、仕送りを半分に減らされてバイトする必要に駆られるまで続きました。
半年以上を人間の底辺で過ごすうちに、授業に出ようとする意志や気力はかけらもなくなっていました。反吐のでるようなゲームセンターのバイトと自分の部屋を往復するだけの日々。学校には寄りつきもしませんでしたが、それでもなおだらだらと学籍だけは置きつづけました。が、天網恢々疎にして漏らさず。結局、三回生時(取得単位数にかかわらず、三回生までは自動的に進級できるシステムでした)の3月に年貢を納め、僕はとうとう除籍処分となりました 。退学ではありません。除籍です。退学には自らの意志で退く、といったニュアンスもありますが、除籍は有無を言わさず学籍を抹消されるのです。任意引退ではなく戦力外通告なのです。三年間の通算取得単位数は、卒業に必要な単位数124に対して、2だったか4だったか6だったか8だったかは忘れましたが、とにかく一桁の偶数だったことだけは憶えています。もちろん親の呼び出しは避けられず、その瞬間、僕は幼小中高大、在籍したすべての教育機関で親の呼び出しを受けるという快挙を成し遂げたのでした。
空前の穀潰しが京都で過ごした三年間にしたことといえば、両親が借金までして工面してくれた学費と仕送り、約500万円をドブに捨てたことだけ。普段は温厚な父親の鉄拳制裁を受け、しっぽを丸めて大阪へと戻りました。
実家に帰ってからも気分がよければしばらくバイトしたり、気に入らないことがあればその日にでも辞めてまた部屋に閉じこもったり、と相も変わらず無意味でいい加減な生活を送っていましたが、ある時、無神論者だった僕に神の存在を信じさせるような出来事が起こりました。
この頃、三次元女性へのあこがれを捨てきれなかった僕は出会い系サイトにも出入りしていました。目の前に本人がいるわけじゃないけど、この回線の先にはその人がいる。意思疎通にリアルタイムの会話は必要なく、ゆっくり文面を考えてメッセージを送信すればいい。という、いわば二、五次元の世界ならなんとかなるんじゃないかと。そして、その努力は報われました。彼女ができたのです! おそらく、痴漢も強姦も幼女誘拐も起こさず慎ましやかに生きていた僕に、神様がプレゼントを下さったにちがいありません。これを神の奇跡と呼ばずしてなんと呼ぶのでしょうか! この時の僕は、地球に存在するすべての神仏に感謝の祈りを捧げたくなるほど浮かれまくっていました。
しかし、だめな人間からはだめなオーラが出ているようで、その幸せもそう長くは続きませんでした。
つきあい始めてまもなく、スキューバダイビングをしていた彼女のたっての希望で、僕は彼女と同じ団体に入会しました。インストラクターの勧めもあり、ローンを組んであれやこれやと器材を買いました。よし、これで彼女と一緒にダイビングに行ける! と、ウキウキしながらライセンス講習を受けていたある日。
突然、一方的に別れを告げられました。
一ヶ月にも満たない短い交際。残ったものはといえば、新車を買えるほどのローンと、埃をかぶった器材だけ。認めたくありません。認めたくはないのですが、当事者ですらそうかもしれないと思うってことは、第三者から見ればこれはもうズバリそうなのでしょう。やはりあれは人から見れば、どう見ても巧妙なキャッチセールスだったようです。本当にありがとうございました。
虚ろな日々が続きました。低収入で低学歴で低身長、ダメ男三冠王の僕にとってはたとえ百五十万円の借金を背負ったとしても、彼女の存在はやはり大きかったのです。
恥ずかしながら、状況を打開するために『モテるようになる本』などといったものを買ってみたこともあります。が、何の役にも立ちませんでした。無理なことばかり書いてあったからです。たとえばこうです。『気軽に話しかけてみる』。と。この作者はアホのようです。それができるんならこんな本買わねえだろうがよ。他にも、不可能なことはたくさん書かれていました。僕は買う本をまちがえたようです。『気軽に話しかけられるようになる本』を買うべきでした。
見るに見かねた知人がコンパに連れて行ってくれたこともありますが、みじめな結果にしかなりませんでした。今から思えば頭数合わせか引き立て役かだったのでしょうが、どちらにせよ僕と彼らとでは住む世界がちがいすぎるのです。初めて経験する華やかな場に、僕はただただとまどうばかりでした。口を動かしたのは食べ物を咀嚼する時のみで、その他の時間はただ押し黙ってイスに座っているだけ。たまに誰かが話しかけてきてくれましたが、二言三言返事をすると、それ以上会話は続きませんでした。
そうして頭上を飛び交う化かし合いの言葉をやり過ごすと、一人とぼとぼと帰途につきました。こうなることがわかっていながら、僕はなぜこんなところに・・・。いや、わかってます。もしかしたら、と思ったのです。もしかしたら、誰かがなんとかしてくれるんじゃないかと。しかし・・・一縷の望みの、時としてなんと残酷なことか。
太宰によると、『弱虫は綿で怪我をする』らしいですが、僕は人の温かい配慮で火傷を負ってしまうのです。一条の光明で失明してしまうのです。そうしてまた一つ心に新たな傷を焼き付けた僕は、それまで以上にふさぎ込み、暗い海の底を這いずるように過ごしました。
その様はまさに深海魚でした。光の差し込まない海底にひっそりと暮らす、グロテスクなチョウチンアンコウの姿。どれほどあこがれようとも明るい珊瑚礁に生きることはかなわず、冷たく暗い海の底で一生を終えなければならないのです。
深海魚として齢を重ねるうちに、僕はいろいろと考えるようになりました。
僕はなぜこうなのか。どうすれば人としての意義に満ちあふれた生を送ることができるのか。満開の桜の下で陽気に酌み交わす勤め人たちのように、己のすべてを賭けて大波に挑むサーファーのように、落ち葉の積もった公園で物思いに耽る老人のように、舞い散る粉雪のなかで肩をよせあう恋人たちのように、喜び、怒り、哀しみ、楽しみながら人生を過ごすにはどうすればいいのか。
―――自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです―――。
僕にもまったく見当がつきませんでした。わからないまま、しかし心のなかではそれらを渇望しながら生きてきました。生きてきたといえば聞こえはいいのですが、要するに死なずにいただけのことです。「生きてさえいれば、そのうちいいこともあるさ」なんておきまりのセリフも、次第にうさん臭く思うようになっていました。
そのうちっていつ? もう何年も待ってるんですけど。
限界が近づいていました。いつしか、地面を見下ろしては無意識のうちに
「ここから飛び降りたら楽になれる・・・のかな?」
といった考えが頭をよぎるようになっていました。何もない。僕には何もない。僕はなんでもない。何物でもない。無駄で邪魔だ。じゃあ・・・なんでここにいる? なんのために生きてる? はは。死んだ方が楽なのか? 死ねば助かるのか?
黒い表紙に鮮やかなオレンジの文字が刻まれた本で出会ったのは、ちょうどそんな時期のことでした。エロ本を失敬するために忍び込んだ弟の部屋に転がっていたその本。この時ちょうどニート期間中で暇をもてあましていた僕は、何気なくそれを手に取り、部屋に戻りました。
その夜、僕の部屋の灯りが消えることはありませんでした。人の生き方に疑問を抱いた作者が仕事をやめて日本を飛び出し、アジアを旅して知り合った日本人を通じて人生を模索するその物語は、僕を惹きつけてやまなかったのです。途中で本を閉じるにはあまりにもアジアの風物は刺激的で、生き様こそちがえど作者の心情はどこか僕のそれに似ていました。むさぼるように、何かに憑かれたかのように読み進みました。
明け方。最後のページを繰り終わり本を閉じる頃には、今まではただぐるぐるとでたらめにまわるだけだった僕の羅針盤が、ピタッと東南アジアを指して動かないのを感じました。
これだ。もうこれしかない。アジアを旅してみたい。行って何がどうなるかはわからない、でもとにかく行ってみよう。人生が変わるのなら変えてもみたい。今のまま死ぬのはいやだ。それまでに一つ、たった一つでいいから胸に飾れる勲章が欲しい。生きた証が欲しい。
次の日、旅行代理店へ行きました。積もり積もった鬱屈感が臨界に達したのです。こうなると、人間は衝動的な行動に出るもののようです。僕の場合それは、あの本を読んでバンコクへ飛ぶことで、その衝動はどうにも止められませんでした。
そして当日、運命の日。関西国際空港へ向かう急行列車の車内。恐怖と緊張はここで、堰を切ったように押し寄せて来やがりました。どこへ行こうとしてるんだ僕は。外国? タイ? 東南アジア?
目は泳ぎ、頭には霞がかかり、体はそのすべてが心臓になったかのように脈動し、足は地につかず、まるでふわふわとした雲の上を歩いているかのようでした。空港島に届く長い長い橋も、その上から見た大海原も、すぐ近くに迫るジャンボジェットの巨大な図体も、それだけで十二分に非日常を感じさせ、緊張感はそれまで以上に大きく膨れあがるのでした。
初めて訪れた空港はとてもスマートで洗練されていて、野暮ったい格好をしたヒキには場違いなように思いましたが、でも僕は行かなければなりません。誰とも目を合わせないようにしながらチェックインを済ませ、出国審査を終えてベンチに腰かけました。
こわい。これからどうなるんだ。
いや、考えるな。これは必要なことなんだ。感情は無視しよう。こわいかこわくないかじゃない、必要かどうかだ。事務的に動け。何も考えるな。
そう自分に言い聞かせ、ただひたすら座ることに集中しました。そうでもしないと、ゲートを逆走してでも自分の部屋へ逃げ帰ってしまいそうでした。
やがて、搭乗開始を告げる無機質なアナウンスが館内に響き渡り。
破裂しそうな心臓を説き伏せながら。
足下のザックを背負い直すと。
搭乗ゲートへ向かい。
後の自分に大きな影響を与えることになった、初めての一人旅と対峙したのでした。
0章 真人間、失格 | 1.旅立ち前 | コメント返信(>>52まで) | ||
---|---|---|---|---|
1章 バンコク・クライシス | 1.異国の洗礼 | 2.メシア現る | ||
2章 うれしはずかし二人旅 | 1.かんちがい開始 | 2.ネアカの街 チェンマイ | 3.スコータイの仏 | 4.アユタヤの人 |
3章 お別れのち再出発 | 1.かんちがい終了 | 2.僕の深夜特急 | 3.変態inノンカイ | 4.動物三昧ナコンラチャシマ |
4章 引きこもり 日本へ帰る | 1.静けさの前の嵐 | 2.羽化 | あとがき |