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次の日。宿を出ると、予定通り例の公園へ向かうことにした。宵っぱりの僕は起きるのも遅い。時間はすでに15時を過ぎていた。
昼間のカオサン通りは人も露店も夜よりは少ない。だが、それは歩くのに適しているという意味ではない。途方もなく暑いからだ。がんばりすぎの太陽がところかまわず光線を振りまき、どう考えても人間が活動するのに適した気温ではない。僕のような、ある意味究極のインドア派にはなおさらだ。150バーツの安宿にエアコンなどは望むべくもなく、この暑さにも少しは慣れてきたとはいうものの、やはり常夏の国で晴天の真っ昼間に表を出歩くのはかなりの重労働だ。
そうなると当然、人体は涼を求める。視線は自然と、狭い路地の片隅にあったフルーツ屋台にとまっていた。敷き詰められた氷の上で涼しげにかがやく、ひと口大にカットされたトロピカルフルーツたち。なんてうまそうなんだ! 僕は磁石に吸い寄せられる砂鉄のように屋台へと近づき、無言でパイナップルを指さした。
さて。買ったはいいが、いざ口に運ぶ段になると、とある不安が足もとからアメーバのように這い上がってきた。
これを食べて、果たして僕のお腹は大丈夫だろうか。ガイド本にも「生水や氷には注意」と書いてあった。で、このパイナップルが冷たいのはついさっきまで氷の上に乗っていたから。あの氷はエビアンを買ってきて凍らせて・・・るはずがない。生水だと考えるのが自然だ。生水かつ氷。ダブルで危険だ。うぅむ、食うべきか食わざるべきか。それが問題だ。
しかし、そんな僕にまとわりつくのはこのうだるような暑さ。数秒後には、噴き出す汗が不安を押し流していた。もうおそれるものは何もない。ひと切れを付属の竹串で刺し、口に入れる。
・・・ん。ん? ん! な、なんじゃこりゃぁああぁあああぁ!
マジすか、めちゃめちゃうまいやん! 何かのまちがいか? あまりの暑さに味覚がイカレでもしたのか? もう一つ食べて確認しよう! ・・・な、なんじゃこりゃぁああぁあああぁ! やはりうまい! わかった、イカレててもいい。これだけのものが味わえるならイカレててもいい。腹下して下痢を噴射して月まで行ってもいい。ここまでうまいともはや僕の知っているパイナップルとは別物だ。だから別の名で呼ぼう。これはパイナポーだ。で、このうまさとボリュームで10バーツ? 30円? いやはや、ナイス僕。宿から徒歩1分のところでこんなに安くてうまいものを見つけるとは!
袋はあっという間に空になった。はしっこは多少水っぽいことが判明したがそれでも評価に変わりはなく、追加で買ったもうひと袋をつまみながら上機嫌で歩いていると、公園までの道のりはとても短く感じられた。
プラ・スメン公園では、バンコク市街にはめずらしい、緑地公園ともいうべき緑のたたずまいが出迎えてくれた。青々とした芝生の要所要所に枝振りのいい木が植えられ、それらの木陰に配されたベンチではサングラス姿の白人旅行者が熱心に本を読んでいる。よほど気持ちいいのだろう、そのまま眠り込んでいる人までいる。なんとも穏やかだ。
園内を歩きまわっていると、美しい白亜の建造物があるのに気づいた。この公園の名にもなったスメン砦だ。プラとは砦の意味で、ここはもともとこの砦を記念するために建造されたらしい。
広場からは広大なチャオプラヤ川が一望できた。
対岸までは200メートルはあるだろうか。褐色の水があふれんばかりに、それでいながらゆったりと流れている。少し下ったところの浮き桟橋は船着き場のようだ。上から下、下から上、川面をたくさんの船が行き交う光景は、両岸に立ち並ぶ高層ビル群と相まって、まさに水のバイパスといった感じだ。
チャオプラヤ川。どこかで聞いた覚えのある名前。たいした意味を持たない単語でしかなかった存在が今、現実の大河として目の前を流れている。思えば遠くへ、本当に遠くへ来たもんだ。これが旅というものか。圧倒的なリアリティをもって迫るチャオプラヤは、そんな当たり前の、しかし部屋のなかにいては決して理解できないことを体験させてくれた。
ふぅ、歩き疲れた。ちょっと休憩しよう。木陰の芝生に移動する。水辺からの風を受けて寝転がっていると、暑くて騒がしいバンコクがまるで別世界に思えるほど涼しく、静かだ。名残を惜しみつつ最後のパイナポーを頬ばる。うめぇ。
風はさわさわと、水はさらさらと流れ、まわりでくつろぐ人たちは干渉してこず、パイナポーは甘い。んんー、サイコー。こういうのを至福というのだろうか。そういえば寝てる人もいたな。こりゃ眠くもなるわ、確かに。彼らに倣って芝生に寝そべる。重さを増したまぶたに視界を遮られるまでにさほどの時間はかからなかった。
ピピーーーーーーーーーーーーッ!
幸せいっぱいの惰眠は、突然のホイッスルによって破壊された。
反射的に跳ね起き、周囲の様子をうかがう。いつの間にか夕方になっていた。ほの暗いなか、あたりにいる人たちのモアイ像のように突っ立ったシルエットがいくつも浮かんでいる。なぜかはわからないが、彼らは突っ立ったまま動かない。
わけもわからず呆けていると再びホイッスルが響き渡り、笛をくわえた警官がこちらめがけてズカズカと歩いてきた。なっ
!? なななんでこっち来るんですか? ネクラは罪ですか
!?
ドギマギしている僕の前で仁王立つと、警官は警棒をしゃくり上げた。なんだ、立てってことか? 状況を把握できないままに立ち上がる。と同時に、どこからか陽気な音楽が流れてくるのに気づいた。後ろにある電柱のスピーカーからだ。スピーカーはひとしきり音楽を吐き出すと、何事もなかったかのように再び黙りこくってしまった。
するとどうだろう。人々がいっせいに動き始めたではないか。子供たちははしゃぎまわり、大人たちは思い思いの場所に腰かけ語らっている。警官の姿も消えている。公園は本来の姿を取り戻した。なんだったんだ一体。
後に知ったことだが、タイでは朝8時と夕方6時に王家を讃える歌が流れ、たとえ外国人であってもその間は直立不動でいなければならないらしい。タイ王家は日本でいえば皇族のようなものだが、尊敬のされ方は比べものにならず、これを怠ると連行される可能性もあるとか。おいおい、そんな大事なことは1ページめに赤で書いといてほしいな、ガイド本。
宿に戻り、しばし脱力する。目標を達成した直後とあって、僕の心には少しの高揚感があった。歩いて5分のところのちょっとした公園へそれも真っ昼間に行って帰ってきただけだから、いくら治安のよくない東南アジアとはいってもそうそうトラブルに見舞われるわけではないのだろう。でも、自分で設定したハードルを越えられたことには変わりない。やればできるじゃないか。大きなことはできませんが、小さなことからコツコツと。この調子だ。明日は名所なんかへ観光に行っちゃおうかなー。と、浮かれながらガイド本をめくっていた時。
「あのー、すみません」
すみません、か。懐かしい響き。まだ旅に出て三日めだが、長い間日本語を聞いてないような気がする・・・って、日本語?
声のした方を見ると、あまりの暑さに開け放しておいたドアの向こうから一人の女性がこちらをうかがっている。日本人だ。突然のことに思考が止まる。急に話しかけられると、反応できるまでに3秒はかかる。
「あ、え、何か?」
「えっと、この向かいの部屋にいる友達と出かける約束をしてるんですけど、いないみたいなんです。それで、どこへ行ったか知らないかと思って・・・」
この宿は白人だらけだが、前の部屋は日本人だったのか。でも知らない。
「いや、知らないですけど」
「そうですか・・・。どうも」
彼女があきらめて帰ろうとしたその時、階段を上がって誰かがやってきた。
「あ、もう来てたの? ごめんごめん。で、この人は?」
「そこの部屋の人。ドアが開いてたから、どこ行ったか知ってるかなって思って、聞いてたとこだったんだ」
どうやら件の友達のようだ。
説明を受けて状況を理解した彼女が話しかけてきた。
「あ、どうもはじめまして。もしかして大阪の人? へぇ、やっぱりそうなんだ。あたし、じかに大阪弁聞くの初めて。すごいねぇ。あ、あたし明日からカンボジアへ行くんだけど、それでね・・・」
僕は自分のペースを乱されるのが嫌いで、しかも他人になれなれしく話しかけられるのはもっと嫌いだが、この女はその二つを同時に、しかもかなりの高レベルでこなしてくれやがった。ものすごく苦手なタイプだ。変なのにからまれた。明日どこ行くか決めようと思ってたのに、くそっ。
生返事を返しながら話を切り上げるタイミングを見計らったが、彼女のマシンガントークはますます冴えるばかりでとぎれる気配がない。こいつの弾倉にはどんだけ弾が詰まってんだ?
いいかげん我慢の限界、というところまで来た時、彼女はこんなことを言い出した。
「私たちこれからご飯行くんだけど、来ない? 近くにおいしい屋台があるんだ」
その一言に、僕は心のドアを閉じようとしていた手を止めた。
これはチャンスなんじゃないか?
タイに来てもう三日になるってのに、ヘタレがたたっていまだにコンビニフードとパイナポーしか食べてない。ここは彼女らに同行してタイ料理の、タイ屋台の実情をリサーチすべきだ。味と衛生の面で心配な点があったのだが、同じ日本人が勧める以上、まぁなんとかなる範囲なのだろう。それに何より、部屋にこもるためにここまで来たんじゃない。自分を変えたいがために来たんだ。ここで変わらずどこで変わるってんだ。カオサンまで来れた。宿も取れた。公園へだって行けた。最初は難しそうに思ったけど、やってみればできたじゃないか。これだってたぶんそうだ。ただ行ってみればいいだけだ。それも向こうから声をかけてきてくれた。拒絶される心配はない。渡りに船だ。
勇気を絞り出すと、表情筋をギギギと笑いの形に造成し、答えた。
「うん、行く」
屋台までの道すがら、簡単な自己紹介を受けた。
部屋で声をかけてきたのがまゆ、長野県で医療関連の仕事をしているらしい。どう見ても僕と同い年ぐらいにしか見えないが、4つ上の29才。良くいえばおとなしげ、悪くいえば地味な感じの人だが、過去にワーキングホリデーやボランティア活動などで数年間世界を飛びまわっていたつわものだ。今回はしばらくタイに滞在し、その後シンガポールへ向かう予定だそうだ。
で、大阪人をめずらしがっていた割には大阪人よりよっぽどよくしゃべるネアカ女、ありさ。年齢はまゆより上としか教えてもらえなかったが、これまたそんな歳には見えない。どうやら旅には女性の容姿を若く保つ効果があるようだ。彼女もまた10を越える国々を訪れたという旅のベテランだ。彼女らは昨日あの宿で知り合い、お互い女の一人旅だったことから意気投合し、今日の晩ご飯をいっしょに食べに行く約束をしていた、とのことだった。
決断は英断だったようだ。これは予想以上に心強い。
カオサン通りの一本北にあるランブトリ通りはそこかしこに屋台が並び、腹を空かせた旅人を待ちかまえていた。通り全体に食欲をそそる、エキゾチックな香辛料の匂いが満ち満ちている。ありさは脇目もふらずにどんどん進むと、もっとも混雑している屋台の前でこちらを振り返った。
「ここ、めちゃくちゃおいしいんだよ。安いし!」
そう言いながら空いていたテーブルに陣取った。僕は言わずもがなだが、まゆもどうやらここへ来たのは初めてのようで、所在なさげにあたりを見まわしている。
そんな二人の様子を見て取ったありさが「適当でいいよね」と言いながら、注文を取りに来た店員にメニューを指さして、カオ・パットというタイ風焼きめしとパッ・タイという焼きそばのようなもの、パック・パットという野菜炒め、それに名前はわからないが具のたくさん入った卵焼きのようなものを注文した。いよいよタイ料理デビューだ。
旅先で出会った女の子二人を両手に花としたがえ、ディナーのテーブルにつく僕。なんか自分が真人間してるように思えて気分がよかった。実際のところはしたがえてるどころかしたがってるんであって相変わらずのダメっぷりなのだが、それはこの際気にしないでおこう。今なすべきは目の前の皿を空にすることだ。さぁ、食べよう!
自分の意見で連れてきた手前、やはり気になるのだろう。こちらの反応をうかがっているありさの視線を感じながら、記念すべき最初のタイ料理を口へ放り込んだ。
こ、これは・・・おぉ、うまい! コンビニパンなどとは比べるべくもない。なかでも特筆すべきはカオ・パットとタイ風卵焼き。火の通った油の香ばしさと絶妙な塩加減がジューシーな食材にとてもよくあっている。このコクのある塩味がナンプラーか。口いっぱいにタイの美味が広がる。やめられない止まらない!
「いや、これはうまいわ」
「ホント、おいしい!」
「へっへっへ。でしょ? 私、カオサンにいる時はいつもここへ来るんだ」
自分のおすすめ屋台がほめられたとあって、ありさは得意げだ。
しばらくの間、3人があやつる箸の勢いは衰えることがなかった。ありさが頼んだビールの酔いも手伝って、満腹になった頃には僕たちはすっかりうち解けていたが、頭に残った素面の部分ではこの事態を不思議に思う自分が首をひねってもいたのだった。
なぜだ。アルコールが入っているとはいえ、なぜこんな短期間でここまでうち解けてるんだ?
考えても明確な答えは出なかった。そもそも理屈で説明できることではないのかもしれない。ただ、さっきまでは、うまい料理と普段は飲まない酒、それに二人の旅先での話に夢中になり、自分の性格などまったく意識していなかったのは事実だ。もしかしたら、僕は今まで己の性格を必要以上に意識しすぎていたのかもしれない。
・・・そうか、それだ! 実は僕のネクラは自分で思っているほどひどくなかったのではないだろうか。ただ単に、ついていける話題が少なくて会話にならなかっただけなのでは? 事実、僕は初対面の人と旅のことに関してあれこれと話をしている。興味あることなら話せている。そうだったのか、よぉし!
浮上のきっかけをつかんで少しハイになった僕は、その後も破綻させることなく会話に参加することができた。
ひとしきり旅の話が終わると、ありさは「明日カンボジア行きで朝早いから」 と言って料金を精算し、一足先に宿へ戻っていった。マシンガントークに旅の知識、加えて女一人で旅しまくる行動力。僕は最後まで圧倒されっぱなしだった。グッドラック、ありさ。
後に残された二人。このまゆさんは静かな人だ。急に間がもたなくなる。とにかく話しかけるんだ。
「ば、バンコクでどっか見どころってある?」
「んー、実はまだあまりわからないんだよね。昨日来たとこだし、タイ初めてだし」
「僕も。今日そこの公園いったぐらいで、他はどこにも行ってないなぁ」
情報を入手できなかった失望感となんとか会話を続けられた安堵感を覚えながら、言葉を返す。すると、予想だにしていなかった展開が訪れた。今から思えば、この一言がのちの僕の運命を大きく変えたのだった。
「ふーん。じゃ明日、どっか行かない?」
内容を理解できたのはやはり3秒後だった。
な、なんだってーーーー!? 大阪を代表する喪男にお誘いっすか!? マジで?
「タクシーとか乗るにも、割り勘できた方が得だしね!」
ふっ。つまりは旅費削減要員ですかそうですか。でも確かにそのとおりだ。こちらとしても異存はないし、なんといっても旅人経験値に不安のある僕にとって彼女の存在は心強い。二つ返事で了解し、朝十時にフロントで落ち合う約束をすると、ウキウキしながら部屋に戻った。
明日はバンコク市内を観光かぁ。それも今日初めて出会った、きれいな標準語の女の子と。ありがとう神様、標準語萌え属性を与えてくれて! これが旅というものなのか! 素晴らしいぞ、旅!
次回 2章 うれしはずかし二人旅 1・かんちがい開始
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1章 バンコク・クライシス | 1.異国の洗礼 | 2.メシア現る | ||
2章 うれしはずかし二人旅 | 1.かんちがい開始 | 2.ネアカの街 チェンマイ | 3.スコータイの仏 | 4.アユタヤの人 |
3章 お別れのち再出発 | 1.かんちがい終了 | 2.僕の深夜特急 | 3.変態inノンカイ | 4.動物三昧ナコンラチャシマ |
4章 引きこもり 日本へ帰る | 1.静けさの前の嵐 | 2.羽化 | あとがき |