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翌日。数本のビールで二日酔いに見舞われた頭にまず浮かんだのは、昨日のナナでの記憶だった。
おっぱいは実在した。都市伝説でも空想の産物でもなかった。くり返す、おっぱいは実在した。おっぱいおっぱい!
バンコクは今日も朝から騒々しく、蒸し暑い。渋滞の大通りに面した屋台で3杯目のバミーと排ガスをすすりつつ、しばらくの間、右手に残る柔らかい感触に鼻の下を長くしていたが、そのあたりでやっと、ひとつの事実に思い至った。
今日はまだ、まゆのことを考えていない。
この数日、片時だって頭から離れることのなかった、彼女との幸せだった時間、そしてそれが砕け散った瞬間の記憶は、おっぱいによっていとも簡単に蹴散らされた。わずかな時間のことだったが、三次元女性の胸に触れることなどなかった喪男にとって、昨日の出来事は宇宙の法則が乱れたことを意味した。我ながらなんて現金なんだ。あの場所の善悪はこの際さておき、新たな世界の一端にふれることができた。もちろん、まゆへの感情が消えてなくなるわけではないが、気分転換としては十分に作用した。個人的な祝日に制定してもいいぐらいだ。うん、スネて落ち込んでウジウジしてても始まらない。そんなことなら日本でもできるし、実際いやになるほどしてきた。そこから脱却するために旅に出たんじゃないのか? そうだ、この世はでっかい宝島なのだ。そうさ今こそアドベンチャー!
ベッドの上に寝っ転がり、新たに入手したタイ全土版ガイド本に目を通す僕の心は明るかった。できることならあの場所へ入り浸りたいものだが、そんなことをしていたら所持金はあっというまに底をつくだろうし、何より今はどこかへ行きたい。旅をしたい!
さて、ではどこへ行くかな。一人であるがゆえに誰にも相談などしなくていい。どこへ行くのも気分次第、風の吹くまま気の向くまま。行きたいところがあればそこへ行けばいいのだ。うおっ、なんて自由なんだ!
全土版はページをめくるごとに各地方、各都市の紹介文がババンと出てきて、それらのすべてが僕を必死で招待しているように思えた。いやはや、参ったなこりゃ。全部行ってあげたいけど、残念ながら僕は一人しかいないのだよ。ここは慎重に吟味しなければ。
やはり旅といえば「世界の車窓から」。移動手段は鉄道、これは基本だ。考えるまでもない。ではどこへ行くか。タイの鉄道路線には北線、東北線、東線、南線がある。
そうだ、夜行列車がいい! 一度寝台列車に乗ってみたかったのだ。よし、乗るぞ!
よって、寝台列車の設定がない東線は除外。となると北、東北、南線のいずれか。しかし、北線の終着駅はチェンマイ。もう行ったし、こないだ利用したピサヌローク~アユタヤ~バンコク間も北線。これも除外だ。
残るは東北線と南線。東北線はイサーンと呼ばれるタイの東北部へと延びる路線、南線はタイ南部、マレーシアを経てシンガポールへと至る、いわゆる「マレー鉄道」のタイ領内、マレーシアまでの部分だ。
うむ。迷うなぁ。迷うぞ。迷うけどアレだ、南線はまた今度にしよう。どうせならもっと金と時間に余裕のある時、できれば次の旅でシンガポールからバンコクまで、マレー鉄道の全行程を制覇してやろう。うんうん、それがいい。そうしよう。
南線を敬遠する理由はもう一つある。南へ行くとビーチリゾートが多いのだ。ビーチリゾートといえば青い波、白い砂、照りつける太陽、そして愛し合うカップルたち・・・が手ぐすね引いて待ち構えているのだ。ふざけんな、誰が金払って針のむしろに座りに行くか。やっぱり南線は除外だ。
オッケー、じゃ今回は東北線でGO! 終着駅は、と。ノンカイってのか。おっ、ラオスとの国境があるらしい。ラオスまで行くつもりはないけど、まぁいいや。イサーン地方は風土がちょっとちがうって書いてあるし、それを見に行こう。
とっとと荷物をまとめ、やってきたホァランポーン駅。いつのもように構内は活気に満ち満ちている。タイのにおい、この国の騒音、東南アジアの風景。やっぱりいいな、鉄道の旅は。バスにはない旅情がある。うっとりとしながら、ふらふらと外国人優先カウンターへ向かった。
カウンターには長蛇の列ができていた。行列の一部になるのはあまり好きではないが、やむをえない。最後尾に並び、待つ。
・・・・・・・・・。
30分ほどしてようやく順番がきた。眼鏡の知的な係員がこちらを見ている。
さて、ここからが問題だ。今までこういった英語のやりとりはほとんどまゆに任せていたが、これからは全部自分でやらなくてはならないのだ。とりあえず行き先を告げてみよう。
「ノンカイ」
「☆↓仝\〓⊂※〒*⊥∫$ⅸ?」
手元の端末をカタカタと叩きながら、彼は何かを尋ねてきた。
・・・まずい、何言ってるかさっぱりわからない。こっちはブロークンの上をいくマッシュドイングリッシュ(粉砕された英語)専門だ、そんな本格的な英語をしゃべられてもわからん。とにかく寝台車だ寝台車。あーっと、なんて言えばいいんだ? とにかく適当に言ってみよう。
「トゥナイト、スリーピングトレイン、ノンカイ」
するとどうだ、彼の顔に「ははーん、なるほど」といった表情が浮かんだではないか。こんなデタラメな英語でいいのか。
が、それもつかの間。彼は申し訳なさそうに言った。
「ノートゥデイ。トゥモロウ㏍▼∮ψΦ‐☆∴@∂」
うーむ。自信はないが、「今日の分はもうない、明日来い」か、もしくは「今日の分はもうないが、明日の分ならある」と言ってるとみた。とにかくキーワードはトゥモロウのようだ。
「トゥモロウナイト? ノンカイ? チケット?」
「イエス」
そうか、やはり明日になるのか。今夜発つつもりでさっきのホテルはチェックアウトしてきたけど、こればっかりはしょうがない。とりあえずチケットは確保しておいて、近くで宿をさがすか。
チケットを買って駅を出ると、チャイナタウンの古びた旅社に宿を取った。部屋はボロボロ、床にはヒビまで走っているが、ここからなら駅まで歩いて5分少々。とりあえず今晩の雨露だけしのげればいいのだ。今日のところは立地優先でいこう。とはいえ、部屋のボロいのはいいとしても、このジメっとした空気は好きになれんなぁ。
黴っぽい部屋の片隅で荷物を解くと、さっき買ったチケットを取り出し、あらためて眺めてみた。
列車ナンバー69、バンコク発20時45分、ノンカイ着8時10分。2等寝台、11号車5番席、上段。398バーツ。明日乗ることになる列車の情報が印刷されている。それらの数字を見ていると、楽しい想像は否が応でもふくらむのだった。
寝台車、生まれて初めての寝台車! ある程度は年季の入った感じの方がいいなぁ、情緒があって。あんまりきれいすぎるってのもどうも・・・。まぁ2等やし、それはないか。食堂車あるかな? あったらいいのになぁ。11号車ってことは最低でも11両編成ってことか、長いな。あれ? 上段頼んだっけ? まぁいいや。とにかく早く乗りたいなぁ。
いつのまにか陽はとっぷりと暮れていた。窓から差し込むネオンが部屋を赤く染めている。その外に広がるのは、「場末」という表現がぴったりなチャイナタウンの賎景だ。さて、晩飯にでも行くか。チャイナタウンだけに中華が多かったな、看板からすると。どこか適当に入ろう。
まだ手に持っていたチケットをしまおうと、ザックに歩み寄る。日本を出る時は新品だったザックは、ここまでの旅ですっかり汚れてしまっていた。
こいつが店頭に並んでいた頃は旅のこともアジアのことも、何も知らなかった。どうしようもない日常から逃げ出したくて、勢いだけでタイに来て、右も左もわからない時にたまたままゆに遇って、で、ふられて・・・。つらくて悲しくてヤケにもなったけど、人とおっぱいの力を借りてそこから引き上げてもらって、僕は自分で次の目的地を決めることができた。今はそこへ行くのが楽しみで仕方ない。
そうだ、ここからまた旅が始まるんだ。今度こそ待ったなし、正真正銘の一人旅だ。難儀することもあるだろうけど、それらを乗り越えられたらどんなにうれしいことか。どんなに自信になることか。
小学1年生の頃、仲のいい友達とよく探検ごっこをした。ひょうたん池へザリガニを釣りに行き、へび山の森に秘密基地を作り、木こりが木を切り倒すCMを見ては近所の畑の作物をなぎ倒し、自転車に乗れるようになった翌日にはおこづかいを握りしめて隣町までガンプラを買いに行き、道に迷って帰ってこれなくなったこともあった。その後、引っ越しをして彼らとは離ればなれになり、探検とは縁遠い人生となってしまったが、異国の一人旅にはどこかあの頃の続きのようなところがあるのだ。ノンカイってどんなとこだろう。何があるんだろう。当時抱いたどきどき、ワクワク感が未だ見ぬ町への想いとリンクする。
・・・ああ、そうか。アユタヤ行きの列車で感じたなつかしさの正体はこれだ。僕の精神は引っ越しをする前、仲のいい友達がいた7才の頃に戻っているのだ。だから旅はこんなに楽しいのか。
あの頃、僕の相方は小さな自転車だった。今の相方はこいつだ。ちょっと汚れてきたけど、もうちょっと頼むぞ、相方。
ザックについた埃を落とすと、部屋を出た。
翌日。発車の15分前、20時半に宿を出た。今夜も蒸し暑い。流れ落ちる汗をぬぐいつつ、駅へ向かって歩き始めた。
チャイナタウンでは漢字の看板もそうだが、建物の古さも目立つ。バンコクのなかでも古いエリアなのだろう。暗くて湿っぽい路地なんかも多い。かと思えばそういったところにフルスモークのベンツが止まってたりして、治安はあんまりよくなさそうだ。まだ8時とはいえ夜だし、こういったところは早く通り過ぎるに限る。
旅人経験値も増し、なんとなくではあるがそういったこともわかるようになってきた。ここさえ抜ければ駅まではすぐだ。寝台列車が待っている。不安と期待につき動かされ、足は自然と速まる。駅までの道のりは妙に長く感じられた。
しかし、試練はようやく着いた駅にも待ち受けていた。嗚呼、寝台列車までの道のりはかくも厳しいのか!
そこにいたのはぼろぼろの格好で寝ころがる人、ひと、ヒト! 構内に入るには入り口前で寝ている多数のホームレスの陣地内部を通らなくてはならないのだった。あったかい国なんだからどこでだって寝れるだろうに、よりによってなんでこんなところに・・・。
時計に目をやる。40分。あと5分しかない。遠くから彼らの様子をうかがいつつ突破口をさがしたが・・・ない。見当たらない。時間を浪費しただけだった。
くそっ、突っ込むしかないのか? あと3分。時間がない。行くしかないのか・・・! 行け、たかだか20メートルほどだ! 野犬の群れよりはましだ!
まわりを見ないように、前方のみをかたくななまでに注視しながら足早に進む。何人かが頭をもたげてこちらを見ている。が、すぐにまた横になった。大丈夫、だいじょうぶだ。あと10メートル、5メートル、4、3、2、3、4・・・なんで増えてるんだ。よしゼロ! 無事ついた!
振り返ってみると、彼らは何事もなかったかのように眠りについていた。彼らにとっては旅人にかまうより、明日を乗り切るための睡眠をとることのほうが重要なのだろう。なんか悪いことしたかな、思いっきり疑ってしまって。でも仕方ない、自分の安全を確保するためなのだから。
駅員に教えてもらった4番ホームへたどり着くと、そこにはほどよく年季の入った列車が出発の時を待っていた。おおっ、これか! なかなか感じ出てるじゃないか。
列車に沿って歩きながらチケットと照らし合わせ、自分の乗る車両をさがす。ここはちがう、ここもちがう、これもこれも・・・って、長っ! どこまであるねん! ホームからちょっとはみだしてる! 近鉄電車とは比べものにならない長さだ。なおも歩く。歩く。歩く。 ・・・ん。ここか。高いステップを踏みしめ、ワクワクしながら乗り込んだ。ちなみに、この時点で発車予定時刻は楽勝で過ぎている。このあたりがタイだ。そんなに急がなくてもよかった。
座席、というか寝台はすぐに見つかった。よいしょ! 気合いもろとも重いザックを放り上げるとはしごを上って後に続き、車内を見渡した。
適度な狭さ、そして古さ。ペンキのはげや金具の錆び具合が泣かせるほどいい雰囲気だ。それでいて必要最低限の清潔感は保たれている。枕元には電灯まである。ポチッとな。 ・・・つかない。これはもうこの国ではお約束だ。
まだ時間が早いせいか、下段は寝台ではなく対面型の座席になっている。これは少しの操作で寝台にできるようだ。乗客はといえば・・・やはりどこかそわそわしているように見える。みんなも楽しみにしてるんだな! うーん、やっぱりいいな。寝台車にして正解だった。これぞ旅、って感じがする。でも失敗したな、窓は下段にしかない。下にすればよかった。景色が見えない。これでは「世界の車窓から」にならない。どうにかして見れないものか。
どこかいいポジションはないかとキョロキョロしていると。ドゴン! あふっ! 天井で頭を強打してしまった。再びあたりを見まわす。誰も見てなかったやろな・・・。
しかし、悪いことに向かいの下段では女性がクスクス笑っていた。なかなか感じのいい、利発そうな女の子だが・・・くっ、見られていたか。思わず苦笑いを浮かべてしまう。
窓の外を見たそうにしていたのがわかったのだろう。彼女は微笑みながら「ここからなら見えるよ」というような仕草をし、対面の席を指さした。しまった、知らん顔しとけばよかった。何をしゃべれってんだ。でも今さら無視するのも失礼な気がする。できればそっとしておいて欲しいのだが・・・もう遅いな、くそっ。観念してはしごを降り、彼女の前に腰かけた。
僕については今さら言うまでもないが、彼女もまた英語はかなりヘタだった。一つのセンテンスを理解するまでに何度も聞き返され、こちらもまた聞き返す。そうこうしているうちに、気持ちがどんどん楽になっていくのがわかった。僕はもともと口が下手で、その上人間は緊張しながら話をするとどうしてもどもってしまうものだ。そしてその傾向が人より強い僕(ちなみに父親も軽い吃音癖を持っている。遺伝するようだ)はそれもコンプレックスの一つなのだが、お互いの英語がここまでたどたどしいと多少どもろうがどもるまいがもう同じようなものだ。1メートルほどの距離で対面しつつ互いに苦労して会話を続けていくうちに、いつの間にか日本で初対面の人と話す時よりリラックスして話せるようになっていた。そうなると、相手の言葉もより聞き取りやすくなってくる。
「日本人? 名前は?」
「うん、日本人。名前はだいすけ。キミは?」
「クン。トムヤムクンのクン。クンは海老って意味なのよ」
へぇ、そうなのか。ある意味エビちゃんか。変わった名前だけど、それが普通なのか? そういやタイ人の名前の意味まで聞いたのは今回が初めてだ。
「で、だいすけの仕事は? 何してるの?」
なんというか、タイの国民性はおおむねシャイであるように思うのだが、それを乗り越えてこんな感じで質問してくる場合、いきなり突っ込んだことを聞いてくることが多いような気がする。二つ目の質問が仕事ですかそうですか。それを聞かれるとつらい。
「その・・・オフィスワーカー。休暇で来た」
思わずウソをついてしまった。なにがオフィスワーカーだ、なにが休暇だ。年中休暇の引きこもりニートのくせに。なんとなく気まずい。質問を返してしのごう。
「く、クンはなんの仕事を?」
「学生。看護学校に行ってたんだけど、ちょうど今日卒業したの。実家の近くの病院で働くことになって、帰るとこ」
彼女の傍らには人形と花束にその他もろもろの飾りをくっつけたようなオブジェがあった。卒業の記念品なのだろう。
「へぇ、コングラッチュレーション」
「ありがと」
まゆといいトレッキングの4人組といい、何かと医療関係者に縁のある旅だ。実は世の女性の7割ぐらいは白衣の天使なのかもしれない。
「だいすけはどこへ行くの?」
「ノンカイってとこ。知ってる?」
「オフコース」
その国の人に「知ってる?」って聞くのは愚問だったか。
「クンは? 帰るって言ってたけど、どこへ?」
「ウドンタニ。友達もいるのよ。ほら」
彼女の視線の先、通路をはさんだ向かいの席にはにこにこしながらこちらを見ている二人の女性。一人は同じく看護士をしているクンの姉。そしてもう一人はこちらも今日大学を卒業した同郷の友達、とのことだった。
まるで紹介されるのを待っていたかのように、彼女らもこちらの席へやってきた。クンとタイ語で何やらキャーキャー盛り上がっている。女三人寄ればかしましい、というのは国籍を問わないようだ。はぁ。華やかなのはいいとしても、言葉がわからん。手持ちぶさただ。今のうちに景色を見ておこう。
窓の外に目をやる。列車はバンコク郊外にさしかかろうとしていた。線路沿いに立ち並ぶ、みすぼらしいながらも温かい光の宿るバラック小屋。古ぼけた屋台につど集い、ささやかな晩酌で一日の疲れをいやす労働者たち。道ばたに止めたトゥクトゥクの客席で眠る運ちゃん。普段は客がふんぞり返っている場所で、彼はどんな夢を見ているのだろう。
ローカル色あふれるタイの夜景が次から次へと登場し、そして去っていった。旅は風景までもが一期一会だ。
「なに? 何か見えるの?」
窓の外を見つめる僕に気づいたクンが聞いてきた。
「うん、なんか・・・いい風景だなと思って」
「? そう?」
僕にとっては旅愁をさそう風景でも、この国の住人にはごくありふれたものなのだろう。特に興味も示さず、彼女は再び秘密の花園へと戻っていった。
クンの友達はクンよりは流暢に英語を話すことができ、たまに僕にも話しかけてきた。さすが大卒。そのレベルは大除(大学除籍)の僕とは雲泥の差だった。
にぎやかな歓談のさなか、クンが興味津々といった様子で尋ねてきた。
「恋人はいるの?」
なんでそんなわかりきったことを聞くのだろうかこのくそアマは。見えてる地雷踏むのが楽しいか? 人の傷に塩を塗るご趣味がおありですかアーハーン? よく見ろこの顔を、この体型を、このふいんきを。これがイケメンに見えるか? むしろ逝け面やろ? じゃ答えは聞かんでもわかるよな?
とは思ったものの、それは顔に出さないよう努力した。なぜなら、僕の頭上には不可視の日の丸がはためいているからだ。彼女にとっては僕=日本人であり、僕の行動=日本人の行動なのだ。ここで僕が激昂などしようものなら、彼女の日本人に対する印象は地に落ちることになるだろう。
僕は努めて平静を装い、答えた。
「いや、おらんよ」
「・・・・・」
三人は無言で顔を見合わせると、タイ語で何やらひそひそと話し始めた。そんなことしなくても内容なんかわからんというのに、妙に小声だ。なんなんだこの空気は。何か悪いことしたのか僕は。
その後、クンの行動にちょっとした変化が現れた。何かとかいがいしく世話を焼いてくれるようになったのだ。ジュースのふたを開けてくれ、頭痛薬だという錠剤をくれ、なぜか自分の写真までくれ、しまいには勤務することになる病院の住所と電話番号(とおぼしきもの)を書いた紙までくれた。まったくもってわけがわからない。ふたはまぁ、ありがとう。でも・・・頭痛薬? 頭痛いなんか一言も言ってない。それに写真? 勤務先の住所? 電話番号?
姉と友人はしきりに「もっとお話したら?」とでもいうかのようにはしゃぎたてている。
う~む、これはあくまでも仮説だが・・・ひょっとして、気に入られてるのか?
いや、用心に越したことはない。美人局か、はたまた置き引きか。ふだんサボリがちな僕の頭がフル回転し始めた。もしかしたら頭痛薬の出番ができたかもしれない。 ・・・はっ! そうだ、これは本当に頭痛薬なのか? 何か別の薬じゃないのか?
ガイド本には旅行者を油断させて睡眠薬をのませ、寝入ったところを見はからって金品をかっぱらっていくという睡眠薬強盗の手口も書いてあった。もしや目の前の三人組は・・・。持ち前の猜疑心が顔をのぞかせた。
うーん、でもなぁ。言動や所持品からすると、彼女らの言っていることは本当のように思える。行動の変化したタイミングとかもあわせて考えると・・・。やっぱり気に入られてるのか。そう考えるのが妥当のようだ。ただ・・・なぜだ?
その時ふと、横浜くんとの会話を思い出した。そうか、そういえば言ってたな。この国じゃ女はもちろん、男でも色白はかなりポイント高い、って。
いくぶん日焼けはしていたものの、5年を越えるもやしライフを送ってきた僕の肌はまだまだ余裕で白かった。我ながら驚きの白さだ。色の白いは七難隠す、か。実際のところ僕の難が7つやそこらで済めばこれほどありがたいことはないのだが、まぁそのへんまでは隠れてるのだろう。それでクンは騙されたわけか。どんな顔するかな、「日本には金を払って肌を黒くする施設がある」って教えたら。それに、日本人ってことで金持ちと思われてるのかもしれない。仕事してるってウソついたし。たぶんそうだ。
よし、理由はわかった。で・・・どうしろと?
僕は日本人、クンはタイ人。さっきからのたどたどしいやりとりで、互いの英語レベルでは英会話というより「英語をベースに各要素を加えた意思伝達法」にしかならないのは証明されている。日常会話もままならないカップル。想像しただけでお先真っ暗だ。それに結婚? まっとうな人間同士でも「結婚は賭け」などと言われるほどなのに、それよりさらにデリケートな国際結婚。新郎は貯金を旅費に使い果たして極貧、しかも引きこもりの引っ込み思案ニート。ついでにいえば職業詐称男。確かに僕はあまり賢くない。だが、これだけの悪条件で吉と出る方に賭けれるほどのバカでもない。無理だ。断らなければ。でも、どうやって伝えよう?
かなり先走った悩みに頭を抱えていたその時、シーツを抱えた係員がやってきた。ベッドメイキングの時間のようだ。手品のような鮮やかな手さばき。あっという間に座席を寝台に変えると、係員は次の座席へ向かった。なんともいいタイミングで来てくれたもんだ。
あたりを見回してみると、もう半分ぐらいの人がおやすみモードに入っていて、なんとなく話を続けにくい空気になっている。寝台車の夜は早いようだ。僕たちもこれでお開きにすることにし、各々は各々の寝台へもぐり込んだ。
カーテンのすき間から顔を出したクンがはにかみながら言った。
「おやすみなさい、また明日ね」
「うん、おやすみ」
僕もまたはにかみながらカーテンを閉め、寝台に寝ころがった。
灯りの落ちた車内。目のすぐ前にせまる天井を見つめながら、旅の心構え論を思い出していた。
我ながらなんという疑い深さだ。初対面の外人にあれだけ世話を焼いてくれた娘を疑うなんて。でもなぁ、悪人を見分ける方法なんかわからんからなぁ・・・。
疑り深い性格は安全確保には有効だが、その代償として親切な人との交流やめずらしい体験など、旅の醍醐味といえるものまでもはねつけてしまうことが多々ある。幸いにも、今のところ人間には危ない目には遭わされていない。それはただの偶然なのか、それとも過剰なまでに警戒していたがための必然なのだろうか。僕の行動はこれでいいのだろうか。旅の心構えはこれでいいのだろうか。もうちょっと人を信じても大丈夫なんじゃないか? いや、己の身を守るのは己だ。ガードを下げるわけにはいかない。でも、それでは・・・いや、しかし・・・。
まぁいいや、シンプルにいこう。とりあえず、コンタクトを取ろうとしてくる輩はすべて疑ってかかる。で、疑いつつ相手の話を聞く。そのなかに怪しい点があれば、見た感じいい人そうでも華麗にスルー。旅ベテランならともかく、僕にそのへんの真偽などわかるはずがないのだから。これが生まれ変わったニュー僕のやり方だ。
奇しくも、たどり着いた結論は駅前でまゆに聞いた「まゆ流旅の心構え論」とは異なるものだったが、それだけに彼女の幻影を振り払うにはふさわしいように思えた。
まゆが僕の決心を聞いたらなんて言うだろう。「それじゃなんにもならない」かな。っておい、いきなり取り憑かれてるやん、幻影に。まぁいい。徐々にでいいから、僕は僕の、自分で決めたやり方でいくようにしよう。なんといってもこれは再出発、僕の旅はまだ始まったばかりなのだから。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。力強いビートを刻みながら、列車は闇の荒野を行く。
次回 3章 お別れのち再出発 3・変態inノンカイ
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1章 バンコク・クライシス | 1.異国の洗礼 | 2.メシア現る | ||
2章 うれしはずかし二人旅 | 1.かんちがい開始 | 2.ネアカの街 チェンマイ | 3.スコータイの仏 | 4.アユタヤの人 |
3章 お別れのち再出発 | 1.かんちがい終了 | 2.僕の深夜特急 | 3.変態inノンカイ | 4.動物三昧ナコンラチャシマ |
4章 引きこもり 日本へ帰る | 1.静けさの前の嵐 | 2.羽化 | あとがき |