スマホの方は、文章エリアを右スワイプで続きが表示されます。縦画面&拡大がおすすめです!
宿を発った僕たちは、少し離れたピサヌロークの町へ向かった。スコータイには通っていない鉄道を利用するためだ。行き先はこれまた世界遺産の町、アユタヤ。まゆは安くて手間のかからないバスで行きたがっていたが、僕だってやる時はやるのだ。
・・・ん? 何したかって? 思いっきりだだをこねてまゆに譲らせたのだ! なんという下克上! ははは、世界の車窓からだ! 鉄道の旅だ男の浪漫だ! イヤッホウ!
そんな経緯でやってきたピサヌローク。バスを降りると、あたりはすごい人出。一帯に大規模な市が立っているのだった。すぐそばには大きな寺院なんかもあり、ポテトをウォッシュするような混雑ぶりだ。市場にはサムロー(荷台つきの三輪自転車。ベトナムのシクロのようなもの)なども停まっていて、ローカルな活気に満ちあふれている。うう、ゆっくり見てまわりたい。
しかし残念ながら列車の時間がすぐそこにまで迫っていた。乗りそこねようものなら次の列車まで何時間も待たなければならず、もしそんな事態になれば、まゆは僕の耳をひっぱってバス乗り場へ連行することだろう。それだけはなんとしても避けたい。断腸の思いで市を素通りし、駅へと急いだ。
ピサヌローク駅のホームには、予想を超える人数が列車を待っていた。もちろん首都であるバンコクのホァランポーン駅ほどではないが、タイの玄関口であるドンムアン空港駅よりは楽勝で多い。当然、乗客をターゲットにした露店や売店も数多く出ていて、それらを見てまわることで市に寄れなかったやるせなさを少しは晴らすことができた。
昼食用のタイ風つくね串を何本か買ったところで列車がやってきた。ほぼ定刻どおり。市に寄っていたら完全にアウトだった。危ない危ない。
ホームに集まった人の多さとは裏腹に、車内にはかなりの空席があった。ありがたい、これならこの暑さも多少はマシになるだろう。
しかし、頼みの綱の扇風機は6台のうち5台までが故障しているのだった。タイの機械類ってなんでこうも故障が多いんだチクショウ!
列車が動き出しても車内に入ってくる風は生ぬるく、気温はたいして下がらない。それどころかじりじりと、太陽の角度とともに上昇する一方。くそっ、バスより暑いな。ひょっとしてまゆはこれを知ってたのか? さすが旅上手、って感心してる場合じゃない。暑そうな顔をしていると次の移動がまたバスになってしまうかもしれない。ここはひたすらやせ我慢だ。
「うぇ~ほらうにゃ~はらにか~」
一人我慢大会にもうんざりしてきた頃、どこからともなく妙な声が流れてきた。節らしきものもついていて、何を言っているかはわからないがどことなく「たけや~さおだけ~」に近いものを感じる。ということは、これはアレか? あれなのか?
やがて通過するであろう声の主を待ち、隣の車両につながる連結部を見守っていると・・・来た! やっぱり!
姿を現した女性は天秤棒をかつぎ、その両端に大きなかごをぶら下げていた。
「うぇ~ほらうにゃ~はらにか~」
例の声をあげる。もうまちがいない。声の調子からそうじゃないかとは思ったが、やはり行商だった。早速呼び止め、かごをのぞき込んだ。
そこに燦然と輝いていたのはミリンダ、コーラ、セブンアップ、レモンティー、ビール。のぼせ上がった体が泣いて喜びそうな清涼飲料水のヒットパレードだ。缶のほか、ビニール袋に入ったものもある。バンコクのシェイク屋でもそうだったが、どうもタイには飲食物をそのまんま袋へ入れてしまう文化があるようだ。
もう一つは軽食のかご。駅弁は小さなスチロール製のトレイに盛られたカオパット、そして駅で買ったようなつくね串、それにお菓子と各種フルーツ。よりどりみどり。さっきのつくね串だけでは心許なかったところだ、食料も調達しておこう。
ささやかな、しかしながら異国情緒満点のランチを終えて冷たいものをのどに流し込むと、ようやく人心地がついた。気温も徐々に下がり始め、しのぎやすくなってきた。まゆはそのまま寝入ってしまっている。心地よい揺れを感じながら、いすの上で目的地への到着をただひたすら待つ。
次の町へ向かう時はいつもこうだ。何があるのだろう。治安は大丈夫だろうか。人は優しいだろうか。宿はあるだろうか。未だ見ぬ街への期待と不安が交錯して眠ることもできず、窓の外を眺めながら過ごすことになるのだ。
その時ふと、それらの感情に何かなつかしいものを覚えた。いつかどこかで感じたことのあるような・・・。そんな前向きな時期があったっけ? ・・・まぁいいか。思い出すことをあきらめ、窓の外に目をやった。
タイの大地はころころと表情を変えた。ところどころに水たまりを浮かべる湿原。地平線の見える草原に遊ぶ牛、牧童の少年。人と車とバイクが行き交う交差点。どこまでも続くヤシ並木。猿だらけの遺跡。四角く切り取られた空間に次から次へと飛び込んでくる情景は、さながら「窓枠劇場」だ。
そして夕暮れ。列車が森にさしかかった時のこと。なんの前触れもなく緑がとぎれたかと思うと、突如として紅が出現した。それははるか彼方へと延びる道。森を貫いて走る赤土の道が斜陽に照らし出され、紅蓮に燃え上がっているのだった。逢魔が時の森に刻まれた、血の色のように不吉で、それでいて息をのむほどに美しい紅の轍。まるでこの世のものではないような光景だった。あれは、まるで・・・。
「どこへ行くんだろうね」
ん?
「さっきの道。なんか、すごいところへ連れてかれそうだね」
いつの間にか起きていたまゆも同じように感じていたようだ。しかし、これほど美しい光景なのに文字にするとなんでこんなにも陳腐になり下がるのだろうか。
盛大に車輪をきしませながら、列車はホームに滑り込む。7時間におよんだ窓枠劇の最終幕、夜のアユタヤ駅に到着だ。乗客の入れ替えを終えると、カーテンコールがわりの汽笛を鳴らしながら、列車は闇へと消えていった。
さて、これから宿を見つけなければならないわけだが・・・。長時間硬い座席にいじめられた体にはこれ以上ない重労働だ。その上、またしても夜の到着。気はあせっているが体は疲れている。動かなければならない。が、いざ動こうとするとけだるさがそれにあらがう。ふぅー。といって駅で寝起きするわけにもいかず、アンバランスな自分にむち打って荷物を背負い直すと、よろよろとホームを出た。
すでにあたりは暗かったが、駅前には屋台が出ていて、品定めをする女性や仲むつまじい家族連れの姿もあった。よし、いいぞ。
日本とちがう環境に何日もいれば、ヒキであろうがニートであろうが否応なしに順応してくるものだ。たとえ夜でも、若い女性や家族連れの姿があるところは治安面では比較的安心できる、ということはこれまでの旅でわかっていた。
そうこうしているうちに通りがかったゲストハウスの送迎用トゥクトゥクに声をかけられ、今夜の宿は拍子抜けするほどあっさりと決まった。
見どころが密集するスコータイとはちがい、アユタヤの遺跡群は市街地のあちこちに点在していて、歩いて行くとなると途方もない時間と労力がいる。ガイド本を見ていた時から思っていたことだが、現地に着いてみるとその点在っぷりは想像以上だった。レンタサイクルもあちこちで貸し出してはいるのだが・・・。このくそ暑いなかをチャリンコで走れと? 冗談じゃない。
そこで、今回はトゥクトゥクをチャーターすることにした。同じように考える旅人が多いのだろう、運ちゃんの方も手慣れたものだ。1時間ならこれだけ、3時間ならこれだけ、夕方までならこれだけ、と料金体系を説明してくれる。例によってまゆが値切り、交渉がまとまると座席に乗り込んだ。
この頃になると僕の旅の主な目的は「まゆと行動する」ことに置き換わっていたので、はっきり言って遺跡などもうどうでもよかった。この町に来る直前までスコータイにいたせいもあるのだろう。遺跡、遺跡、また遺跡。まさに遺跡の叩き売りで飽和状態にあったのだ。
原因はもう一つあった。市街地から離れたところに整備された公園として存在するスコータイとはちがって、アユタヤの場合はさっき言ったとおり市街地のあちこちに点在している。必然、古代の寺院を散策中に現代の生活騒音が飛び込んできたりして興ざめもいいところなのだ。お好きな方はスコータイ様式とアユタヤ様式のちがいを発見しては狂喜乱舞したりするのだろうが、お好きでもなんでもない僕にとってそれらは特に興味をそそるものでもなかった。
それでも教科書で見たことのある木の根っこに取り込まれた仏頭やビルマ軍に軒並み首をはねられた連座仏、そしてリュウとサガットが前で戦いを始めそうな涅槃仏などにはある程度驚嘆し、その日の遺跡めぐりは終了した。
食事を終えて宿に戻ってくると、中庭に数人の日本人どもがだべっていた。男女計四人の学生風グループに同じく学生風の男二人連れ、そして初老の男性だ。人当たりのいいまゆはさっそくその輪に加わり、よもやま話に花を咲かせ始めた。おいおい、勘弁してくれよ・・・。
僕はこういった場面が何よりも嫌いだ。初対面、あるいは他人同然の連中が、まるでそうするのが当然と言わんばかりに、薄っぺらのどうでもいい世間話を垂れ流す空間。しかもそのなかに仕切りたがり屋がいようものなら、不快指数は一気に跳ね上がる。今回はといえば・・・やはりいやがった。どういうわけかこういう場には一人はそんなヤツがいるものだ。司会者然として振る舞っている「自称」画家のジジイ。誰がおまえの絵筆の値段を聞いた? 誰がそんなどうでもいいうんちくを聞かせてくれっつっった? 知るかよ、おまえの過去の栄光なんか。そもそもホントかそれ? どうでもええねん、おまえの話なんざ!
やっかみもあるのだと思う。自分もあんな感じで話せるようになりたい、のになれない。ひがみねたみそねみ。嫌悪感を感じる原因は自分でも把握している。だがそれがわかっていたところでなんだというのだ。どうしようもない。できないものはできない。ランブトリの屋台できっかけをつかんで多少ましになったとはいえ、きっかけはあくまでもきっかけであってそれ以上のものではなく、しかもそれからまだ半月ほどしか経っていないのだ。積年のネクラ、永年の引っ込み思案がそう簡単に解決するはずもなく、僕はどうしようもないいら立ちを感じながら、少し離れたところから醒めた視線を投げることしかできなかった。そこにいたのはいつもの、旅に出る以前の僕だった。
さらにムカつくことに、まゆはそのジジイと楽しげに話している。そんな自己顕示欲が服着てるようなヤツと話すのが楽しいか?
「行こうぜ、ほっとけそんなヤツ」
と言えればどれだけよかったか。しかし、僕はまゆの何だ? 行動を制限できる立場にあるのか? 「関係ないじゃん」とか言われたらどう返事したらいいんだ? そんな時はどんな顔すればいいんだ?
嫉妬、疎外感、焦燥、怒り。様々な負の感情が押し寄せてくる。ダメだ。これ以上ここに居たら爆発してしまいそうだ。
「ちょっと歩いてくるわ」
誰にともなく吐き捨て、門を押した。
真夜中、一人で出て行こうとする男に声をかける者はなかった。
僕の心のように真っ暗なアユタヤの町を歩く。人影はなく、昼間の喧噪がうそのようにあたりは静まりかえっている。普通なら絶対に外出などしようとは思わない状況だが、直視したくない現実を次々と突きつけられた僕はすっかり投げやりになっていた。
あの状況で話の輪に加わることなど論外。できるわけがない、二重の意味で。部屋へ戻るのではなく外に出たのはたぶん、誰かに止めて欲しかったから。気にして欲しかったから。しかし期待した制止は誰からも入らず、そのまま出て行くしかなかった。出た以上すぐ戻るのも負けを認めるようで、あいつらが正しい(少なくとも間違ってはいない)と認めるようで気に障る。行くあてなどどこにもなかったが、むやみやたらと歩きまわり、時が経つのを待った。
そうこうしているうちに、昼間にも来た遺跡の前に出た。この遺跡は夜間にはライトアップされるということだったが、時間が遅すぎたのか光源はどこにも見当たらず、周囲はただひたすらに暗い。どこからともなく流れてくる虫の音がむなしさをより一層際だたせる。
こんな時間にこんなとこまで来て何やってんだ。そんな思いが浮かび、いたたまれなくなってきた。もういいだろう。もう帰ろう・・・。
少しばかり冷えた頭で、宿に戻るまでの行程を思い浮かべた時。やっと自分の置かれた状況に気がついた。
深夜。真っ暗。外国。日本人。一人歩き。人気なし。度胸なし。根性なし。
・・・なんとおそろしいことをしていたのだ!
思わずその場にへたり込みそうになった。今まで意識して避けてきたことをなんで自らの意志でやってしまったんだ・・・! 我ながらアホだ、アホだとは思うが・・・他にどうしようもなかった。少なくとも、僕が僕である以上、あの場面で他の選択肢はないに等しかったのだ。
では今からどうするか。まわりには誰もいないし、いたとして信用していいのかどうかわからない。ここは外国、自分でなんとかしなければ始まらない場所なのだ。行かなければ。一歩目を踏み出す勇気をかき集めるのに時間がかかったが、それでもなんとか歩き出すことができた。
風の音におびえ、羽虫の影に驚き、たまに背後から走り来るバイクを警戒しながら、足早に歩を進める。そしてようやく宿まで50メートルほどのところまで来た時。耳が背後から聞こえてくる不気味な音をとらえた。何かにつけられている・・・!? カサ、カサ、ツァッ、ツァッ、チャッ、チャッ。うおぉぁもう勘弁してくれってえええぇえ! なんだ!? 何がいるんだ?
ウ~~~。グルルルルルル・・・。
・・・・・うなり声。獣のうなり声だ。
走り出したいのをどうにかしてこらえ、そーっと振り返った。黒い輪郭。カチャ、カチャ。アスファルトに爪音を響かせながら距離を詰めてくるのは・・・! やっぱり! 野良犬の群れだ!
野良犬がそこかしこにいるのがこのタイという国だ。昼間は日陰でグデッと寝そべっていて人畜無害なのだが、夜になって気温が下がると群れをなしてそこら中を徘徊する。夜であっても一匹であればかかってくることはまずないが、徒党を組むことで自分は強いと錯覚するのは畜生も珍走も同様で、こういった時のヤツらはすこぶる好戦的なのだ。バンコクでの話だが、夕暮れ時にビジネスマン風の男性が数匹の犬に追われているのを見たこともある。こうなるともう野良犬ではなく「野犬」と言った方が正しいかもしれない。
なまじ足に自信があって間髪入れずにダッシュしたりしていたら、おそらく一気にかかってきただろう。身体能力に自信がないのがいい方向に働いたようだ。犬どもはうなり声を上げてはいるものの、まだ飛びかかってきたりはしていない。宿まではまだ距離がある。助けてくれそうな人もいない。このまま少しずつ下がっていくしかない。
視線をそらさないようにしてじりじりと後退する。と、ヤツらも同じだけ距離を詰めてくる。街灯の下に来た。数は10匹いるかいないか、先頭の一匹までは15メートルほど。どいつもこいつも殺る気満々の目つきだ。いやだ。咬まれたくない。もちろんどいつにも咬まれたくないのだが、右から二番目に毛並みボロボロよだれダラダラの奴がいる。なんの病気だそれは! 特にあいつにだけは絶対に咬まれたくない!
ジリジリ、ジリジリ。宿まではあと20メートル。心臓はパンク寸前。恐怖に負けて今にも走り出してしまいそうだ。犬どものいら立ちもかなりのところまで来ている、ように見える。なんでこの世はこんな理不尽なんだ・・・。野犬に脅されないといけないようなことをしたのか僕は! もうどうにかなりそうだ! あと15メートル。犬までも15メートル。いや、もうちょっとあるか?
よし、この距離なら!
ゆっくりと姿勢を変え、前を向いて何事もなかったかのように歩き出す。その直後、肉ばなれ覚悟でダッシュ! 一瞬の間があき、ついで咆哮と地を蹴立てる爪音が聞こえた。完全に意表をついた! 闇の先に宿の門が見える。あそこに入ってしまえばあああぁあぁああ???
扉はガッチリと閉まっていた。開けろ、開けてくれえぇぇ!
必死の願いもむなしく、扉はピクリとも動かない。狂犬どもはもうすぐそこ、このままだと享年25才になってしまう! うわああああっっああぁぁあ!!!
揺れる視界で自分の右手と左手が門扉の上端をつかんだかと思うとそのまま足がじたばた動き、僕の体は門扉を越えた。そのまま転げ落ちるように着地するのと先頭の犬が扉に突っかかるのはほとんど同時だった。
助かった!
安堵感が一気に出て、地面に座り込む。息の荒さもそうだが、それ以上に足がふるえて震えて・・・力が入らない。立てない。切り傷があちこちにある。門扉の上部にある泥棒返しで切ったらしい。とにかく助か
「ど、どうしたの? 大丈夫!?」
振り向くと、目をまん丸にしたまゆがいる。その後ろには豆鉄砲を食らったハトのような顔でこちらを見ている仲良し集団ども。奴らはまだだべっていたのだ。微妙な空気が流れている。騒々しく転がり込んだことで談笑ムードに水を差してしまったようだ。とたんにさっき味わった疎外感がよみがえってきた。
ちっ。相変わらず楽しそうやねぇ。なんやその目は、ん? 僕は異分子か? ああ、言われんでも消えるよ。どうでもいい話を続けててくれ。悪かったな、邪魔して。
視線を無視し、何も言わずに立ち去った。
数時間後。中庭から聞こえる話し声で目がさめた。僕の部屋は中庭に面した位置にあり、声が通りやすいのだ。
奴らはまだだべっているようだ。時計を見る。 1時過ぎ。おい、いい加減にしてくれ。
怒りを胸に押しとどめ、庭の方へ声をかけた。
「ちょっと声絞ってもらえますか?」
窓の外に沈黙が流れた。
「あ、はい。ごめんなさい」
誰かの返事の後、話はくぐもったひそひそ声になり、僕は再び眠りに落ちた。
それからしばらく。またしても叩き起こされた。時刻は2時前。奴らの話し声は注意する前よりむしろ大きくなっている。そこには聞き覚えのあるもの混じっていた。まゆの笑い声だ。それに気づくと同時に重油のようなどす黒い感情が吹き出し、そこに嫉妬の炎が引火した。熱い。痛い。羨ましい。苦しい。妬
ましい。なんで僕が、僕ばっかりがこんな目に?
そうか、あいつらがのけ者にしたからだ!
こういった考えは俗に「逆恨み」とか「逆ギレ」などと呼ばれていて確かにその通りなのだが、爆発寸前の引きこもりにはそんな理屈など通らない。ガバッと跳ね起きるとドアをぶち開け廊下を踏み歩きフロントを抜け玄関を突っ切り、中庭目指して足音荒く突進した。
中庭には相も変わらずバカ話に興じる阿呆どもの姿があった。三度目の干渉を受けた奴らは当然静まりかえったが、それで僕の足が止まるわけでも気が済むわけでもない。
ドガッシャ!
そばにあったテーブルを蹴り上げ、言った。
「今、何時ですか?」
「・・・・・」
「・・・・・」
口を開く者はいない。
「そろそろお開きにしますか」
しばしの沈黙を破ってジジイが口を開き、それを合図に一同は三々五々、各々の部屋へと散っていった。
は! ちょっとは気が晴れた。でもこんなことをしたかったのか? こんなことを望んでたのか? 他の方法はなかったのか? 胸のうちで爽快感と不快感と申し訳なさがごちゃまぜにからみ合い、なんとも複雑な気持ちになった。
部屋へ戻る途中、追いかけてきたまゆにつかまった。
「ねぇ、何怒ってんの?」
声には非難の調子が混じっている。宴たけなわだったのだろう。
「はい、あなたが僕のいないところで楽しそうにしているのでやきもち焼きました」
などと本音が言えれば僕も大物なのだが、もちろんそんなことが言えるはずもなく、
「今何時やと思ってる? 非常識やと思わんか?」
建前の方を振りかざすことにした。
「非常識って、そんな・・・。旅先じゃどうしたって夜は遅くなっちゃうじゃん。あんな言い方することないよね?」
「それにしたって限度ってあるやん。しかも一回ならともかく。一回目は普通に言うたやろ?」
「・・・・・」
常識的に考えて、僕の言った理屈はまちがってはいないはずだ。しかしここは異国で、かつ、みな仕事ではなく旅行で来ているのだ。日本でのマナーや常識が今の状況でもそうだとは限らない。少なくともこの場所ではまゆの言い分も一理あるだろう。その上、僕は本音を隠して話しているのだ。気まずい空気が肌を刺す。それは肉を骨を、さらには内臓をもつらぬいて心の奥底にまで達するかのようで、僕の良心はじくじくと痛んだ。
もっとうまく自分の感情を表現できたら・・・。
他人と接点を持たずに過ごしていると、それによって生ずる様々な軋轢を避けて通ることができる。しかしその反面、何かのはずみでそういった局面に直面してしまうと、慣れていないだけに感情や言葉をうまくコントロールできず、先ほどのように抗議する場合なども、ドン引きさせるほど激しいか、さもなくば抗議の意味をなさないほどぬるいかの両極端になってしまう。適切な感情を適切な強度で伝達できないのだ。その結果相手にうまく伝わらないばかりか反感まで買ってしまうこともめずらしくなく、それを恐れるあまりさらに人を避けることで悪循環におちいり、そうやって僕は出口の見えないトンネルをとぼとぼと歩いてきたのだ。
「今日はもう寝るわ、とりあえず。おやすみ」
このまま話しているとまた爆発してしまう。そう判断して会話を切り上げ、部屋へ戻った。
寝覚めがいいとは言えない朝。起きてから30分以上うだうだと悩んでいたが、ようやく決心がついた。
気は進まないけど、謝ってみよう。
今までは「どうでもええわ、あんな連中」で済ませていた。が、今までと同じことをしていては今までと同じ結果にしかならない、というのはここまでの旅で痛感していることだ。僕が取った行動はまちがっているとは思わない。思わないが、態度はよくなかったかもしれない。場の雰囲気を悪くしたのも確かだ。ここはぐっとこらえて、とりあえずテストケースとしてあくまでもやむをえず仕方なく仮に一時的暫定的緊急避難的に百歩譲って、謝ってみよう。それで何か得るものがあるかもしれない。なければこれから先ああいった手合いは必ず避けて通る、と。よしそれで行こう。決めた。覚悟がしぼむ前に行くぞ。是非を考えるな、とにかく行け。腹を決め、ノブに手をかけた。
中庭にいたのはジジイだけだった。商売道具の手入れをしている。どう切り出していいかわからず後ろでもじもじする。しっかりしろ。あこがれの人を木の陰から見てる女生徒じゃあるまいに。
その時、非リア充のダークな気配を感じたのか、ジジイが振り向いた。うわっ、目が合った。今から逃げてももう遅い。言いたくない、でも言わないと。
「あ。昨日はその、もっと柔らかくいけたと思います」
「・・・?」
わけがわからん、という顔をしている。そりゃそうだ、言ってる本人からしてパニクっているのだから。
「もうちょ、っと言い方があったと思ってその・・・。すみませんでした」
「ああ、あっはっは」
ジジイは笑った。
「そのことですか。気にしてませんよ。同じ状況だったら僕だってきっと腹が立ったと思いますから。こちらこそ遅くまですみませんでした」
・・・・・・・・・・。
まさか逆に謝られるとは。想定外もいいところだった。邪険に扱われるか、よくて無視だろうと思っていた。僕ならそうするからだ。まぁ無視が妥当なところか。しかもこんな若輩に対しても丁寧語。人間としての器の差と同時に、ちょっとした行き違いはちょっとした言葉で回復できることを知った。「一言謝ってくれた」という事実がもたらす印象のなんと鮮烈なことか。普段人と接しないからこそ、その温かさは人一倍身にしみる。
そして大事なことは、今回の体験は一時的暫定的緊急避難的行動がきっかけであるということだ。今まで損してたのかもしれないな。もっと早く気づいていたなら、あの時もあの時もあの時も、もっといい結末にたどり着けたかもしれないのに・・・。いや、今気づけただけでも収穫か。これから活かしていけばいいのだから。
その後、まゆやその他のメンバーとも話をし、和解を見ることができた。
世界遺産の町、アユタヤ。過去の遺跡から得られたものは少なかったが、宿で出会った人から得られたものは、現在を生きなければいけない僕にとっては何物にも代えがたい価値があった。
次回 3章 お別れのち再出発 1・かんちがい終了
0章 真人間、失格 | 1.旅立ち前 | コメント返信(>>52まで) | ||
---|---|---|---|---|
1章 バンコク・クライシス | 1.異国の洗礼 | 2.メシア現る | ||
2章 うれしはずかし二人旅 | 1.かんちがい開始 | 2.ネアカの街 チェンマイ | 3.スコータイの仏 | 4.アユタヤの人 |
3章 お別れのち再出発 | 1.かんちがい終了 | 2.僕の深夜特急 | 3.変態inノンカイ | 4.動物三昧ナコンラチャシマ |
4章 引きこもり 日本へ帰る | 1.静けさの前の嵐 | 2.羽化 | あとがき |