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ホァランポーン駅に降り立つと、そのまま53番のバスに乗った。タイにいられるのもあさってまで。カオサンで飛行機のチケットを買うためだ。
事前に調べてはいたものの、値上げされてたりしたら所持金かつかつの僕にはかなり厳しい。渋滞に巻き込まれるたびに「こ、この間に値上がりするんじゃないか」などと無意味にあせりつつ、到着の時を待った。
巨大な荷物を背負ったまま、いつものように騒がしいカオサンを駆け抜ける。今日に限れば部屋の確保は後回しだ。宿には目もくれず、下調べをしておいた代理店へとひた走った。同じチケットでも店によっては値段が2割ほども上下することがあるので、安い店に当たりをつけておいたのだ。
「日本の大阪行きで一番安いのはいくらですか?」
チケットの値段はそのままだった。ふー。これで帰れる。
「じゃ、あさっての便」
「あさってはフライトがないんですよ、この航空会社は」
毎日飛んでるわけじゃないのか。今日は金曜だから、あさっては・・・日曜か。
「じゃ明日で」
滞在日数を一日損する形になるがやむをえない。しかし、彼は申し訳なさそうに言った。
「明日の便はもう満席なんですよ。次は火曜日になりますね」
え? 火曜日ってことは・・・四日後! 滞在期限あさってまでなんですけど!
僕はあわてて尋ねた。
「え、え、え? じゃ他の航空会社は?」
「あるにはあるんですけどね、ちょっと高いですよ」
「い、いくらですか?」
・・・・・足りない。 まずい、まずいぞ! 不法滞在になるじゃないか!
「どどど、どうしたらいいですか?」
もっと早くに予約しておけばよかったのだ。自分の詰めの甘さがまいた種、自分で刈り取るべきだろう。それはわかってはいたが、僕はこういったケースに遭遇したことなどない。厚かましいのは重々承知しながらも、そういった知識が豊富であろう彼にすがる他なかった。
「空港で一日につき200バーツの罰金を払えば多少のオーバーステイは見逃してもらえます。けど・・・」
「けど?」
「場合によっては、次から入国を拒否されたりするかもしれませんね。いちおうは不法滞在ですから」
イヤだ。そんなのイヤだ。また来たい、また来たいのに!
肩を落とす僕を哀れに思ったのか、彼は耳よりな情報を教えてくれた。
「イミグレーションへ行って500バーツ払えば、十日間延長してもらえますよ」
マジすか! 500バーツなら払える! ・・・で、イミグレーションって何?
「出入国管理局のことです。正式の延長許可がもらえますよ」
ありがとう! じゃちょっと行ってきます!
ルンピニー公園をさらに南へ下った下町エリアにあるイミグレ。カオサン周辺で呼び止めたトゥクトゥクは2台とも場所を知らなかったので、エクスプレスボートとBTSを乗り継いで行くことにした。
高層ビルの谷間を抜けると、ボロい雑居ビルが並ぶスワンプルー通りに出る。イミグレはこの通り沿いだ。思ってたより時間がかかったが、場所はここでまちがいない。鼻歌まじりで歩く。
しかし。初めのうちこそ安堵感から足取りも軽かったのだが、影が長くなるにつれて一つの疑問がわき起こってきた。
もしかして、もう閉まってるんじゃ・・・?
営業時間を聞くのを忘れていた。アホのアホたる所以と言ってしまえばそれまでだが、ちくしょう、なんで僕はこうも大事なところで抜けているのか。余裕かまして宿探したり屋台へ寄ったりしてる場合じゃなかった。
時刻は午後5時過ぎ。この国はだいたいなんでもいい加減だから大丈夫だろう。そう自分に言い聞かせてはみたものの、足取りが次第に速くなるのは抑えようがなかった。
着いた、ここだ。でもやけに人が少ない。ん、ドアにプレートがかかってる。
『OPEN 8:30分~12:00 13:00~16:30』
魂の抜け殻のようになってカオサンへ戻った。
宿に着いても僕は打ちひしがれたままだった。次第にあせりもつのってくる。どうしよう。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう!
とりあえず深呼吸だ。よし。まず火曜日の航空券をおさえる。他に買える航空券はないのだからそれは当然として、それからどうしよう。お尋ね者になるのか? 不法滞在? もうタイに来れない?
最悪の「帰国不可」という事態はなんとか避けられそうだが、タイに来れなくなるというのもまた是が非でも避けたかった。何か、何か手だてはないものか。
ん、待てよ? そういえばあのプレート、他に何か書いてなかったっけ? あの時は『16時30分』に目がくぎ付けになってその直後真っ白な灰になってたからよくは思い出せないが、その下に何か書いてあったような。
そうだ、ガイド本にはなんて書いてあるんだ? ガイド本を見てみよう。イミグレの受付時間は、と。平日の午前中? おい! ちがうやん! 午後もやってたぞ! これは例のアレだ、ノンカイのバス待ち事件だ。ガイド本が正しくないアレだ。ということは、土曜だって午前中ぐらいはやっててもおかしくはない、ということだ。そうか、あのプレートには『MONDAY―FRIDAY』とか『SATURDAY』とか書いてあったんだ。そういえばそんな気がしてきた。よし、これは行ってみる価値がある。というより、もうそれにすがるしかない。
さすがに今度ばっかりはしくじれない。寝過ごしを避けるために徹夜を敢行することにした。日本でいた頃は徹夜なんて当たり前(ただ単に昼夜逆転していただけのことだが)だったが、今回のように「寝ないために起きている」という徹夜は人生初だ。
ベッドに寝ころがる。いすに座ってみる。シャワーを浴びに行く。ついでに洗濯する。
・・・つまらん。ひまだ。
移れるものならテレビつきの部屋に移りたかったが、安宿にそんな部屋などなければいいホテルに泊まれるだけの金ももう残ってない。膨大な時間がじりじりと襲ってくる。いかん、ひま過ぎて眠くなってきた。ちょっとぐらいなら寝ても・・・。アホか、寝過ごしたらどうするつもりだ。でも眠い。いや、今日ぐらいがまんしろ。でも・・・いやいや・・・。
拷問のようなつな引きを繰り返すこと数時間。ようやく東の空が白んできた。
は、8時だ。やっとか・・・。い、行くぞ。ところどころ記憶が飛んでるような気がするけど・・・。
ふらふらになりながら部屋を出た。腹ごしらえをした後まず航空券を買い、返す刀でイミグレへ直行する。
建物の周辺には一目で外国人とわかる姿がいくつかあった。パスポートを手にしている人もいる。あ、あれは・・・あ、ああっ! ヒィヤッハァーーーーー!
はたして、イミグレは開いていた。ありがとう、ありがとう僕のイミグレ! これで不法滞在いにならずに済む! やったあ!
見慣れない英語の書類も順番待ちの長い列もテンションを下げることはなく、カオサンへ戻る途中も僕は上機嫌だった。役所へ行くことなんか日本でも滅多にないのに、海外で、しかも英語で法的手続きをこなせるなんて。意外とやるじゃないか。
ちょっと自分を好きになりながら歩いていると、気がつけばもう宿屋周辺だった。この大通りさえ渡ればそこはもうカオサンだ。しかし、バンコクにおいてはこの「通りをへだてたちょっと」の距離が果てしなく遠い。車の往来がとんでもなく激しいからだ。おまけに信号も歩道橋も極端に少ないときている。否が応でも行き交う車の間をすり抜けて渡らねばならず、この街においてはそれがごく普通のことなのだ。さぁ、いっちょやるか。
まずは路肩に立ち、交通量を見極める。これはまた・・・今日もすごいな。気合いを入れねば。一歩、二歩。次々と迫り来る車どものタイミングを計り、そろそろと進む。が・・・おっと、直撃コースに車が来た。二歩下がる。再トライ。一歩、二歩、三歩・・・。よし、今だ。
渡り始めたら基本的に立ち止まってはいけない。周囲の車と同じペースで走っている時、バンコクのドライバーは自分の前に歩行者が出てきてもいちいち止まってはくれないからだ。どうやら「こいつはこの速さでこのまま歩き続けるだろう、だったらこのまま行っても問題ないな」という予測をしているようだ。そしてそのままのスピードで数センチ脇をかすめて走り去っていく。まぁ当たらなければどうということはないのだが、1トン超の鉄塊が時速数十キロで服のすそや袖をかすっていくのは何度やられてもなかなか慣れない。
細心の注意を払ってなんとか渡り終え、宿に戻ろうとすると・・・
キキーーーッ! バガンッッ!
体のすくむような音が聞こえてきた。事故だ。
事故の瞬間に立ち会ったのはこの一回だけだったが、現場の人だかりや路面に散乱したガラス片などは一ヶ月の間に何度となく目にした。バイクはノーヘル三人乗り、信号はあくまでも参考程度、優先される交通は頑丈なものと素早いもの、というお国柄だ。タイは本当に交通事故が多い。
まわりの野次馬に誘導されるようにして現場を見に行くと、そこには破片をまき散らし、前部をぐしゃぐしゃにしたバイクが転がっていた。その前には後部バンパーをへこませたタクシー。状況からするとかなりのスピードでバイクが追突したようだ。
バイクのドライバーは野次馬によって歩道に寝かされていた。ぐったりしているが意識はあるらしい。服はところどころ破れ、あちこちから出血してはいるもののどうやら命に別状はなさそうだ。やはりノーヘルか。よくその程度で済んだね、あんた。
その時、野次馬をかき分けて二人の警官がやってきた。事故から三分もしないうちの到着。不幸中の幸いにも、そこはちょうど警察署のどまん前だった。
警官はドライバーに何やら言葉をかけている。意識チェックでもしているのだろうか。早く救急車を呼んでやれよ。
やきもきしながらその様子を見守っていると、警官たちは彼の両脇を抱え、そのまま署へ連行してしまった。
あれっ? いやいや、なんでやねん。まず病院では? まず逮捕? なんで? 血ダラダラ流してるのに? マジすか? ・・・あはっ、あははははは! やってくれるな、タイ警察!
不謹慎かもしれないが、僕はおもわず笑ってしまった。予想だにしなかった展開、日本ではありえない事態に意表を突かれ、笑わずにはいられなかったのだ。あー、あははは。やるな、タイ。 やっぱこの国は最高だ。これがアジアか。実は僕は西洋があまり好きではないのだ。というのも。
高校一年の春休み、僕は半ば強制的にニュージーランドへホームステイに出された。どこにでもあることなのかもしれないが、長男として生を受けた僕は何をするにしても本人の能力以上の結果を期待されていたのだ。
気さくで陽気なホストファミリーは、異国から来た僕を何かともてなしてくれた。しかし、この時期にはすでに重度のネクラだった僕は、自分がまるでひまわりに囲まれたコケのように感じられた。その思いは、彼らが気を遣ってくれるのを感じれば感じるほど強くなっていった。僕がこんな人間だからこの人たちにここまで気を遣わせてしまうんだ。生まれてきてすいません、来てしまってごめんなさい。ここへ来たのは僕が悪いんじゃないんです、親が悪いんです。
なじめない原因は他にもあった。栄養のバランスはいいのだろうが、ジャンクっぽさに欠けてどこか味気ないニュージーめし。目に見えるすべてが清潔で、一分の隙もないクライストチャーチの街並み。無駄を許さない機能的な生活システム。文句のつけどころはどこにもないかわりに、利用する側も背筋をのばさなければいけなような雰囲気がただよっていた。牧歌的な風景はそれこそ郊外の牧場ぐらいのもので、ニュージーランド、そして帰りに寄ったオーストラリアもまた僕のような陰鬱な人間がリラックスするにはあまりにも居心地の悪い場所だったのだ。
その点、この国は180度ちがう。おおざっぱでいい加減でお気楽極楽、細かいことは気にしない。人間のずぼらな面があちこちにかいま見えたり、また時には隠してるつもりなのに丸見えだったりですごく親近感を覚えてしまう。そういったダル~くてぬる~い雰囲気が僕の肌と性にベストマッチなのだ。
日曜日。帰国するのはあさってだが、残金を考えるとまともに行動できるのは今日が最後になるだろう。そこで、ガイド本を見て気になっていたウィークエンド・マーケットへ行ってみることにした。1万の店に10万の人が群がる、土日のみ開催されるタイ最大の市。ここへ行かずして市場散策を終えることなどできやしない。
BTSを乗り継いでモーチット駅へ。高架橋から俯瞰するウィークエンド・マーケットはとほうもなく広く、そして混み散らかしていた。 ・・・これが全部市場だってか? 一体全体どれが何でどこがどうなって敷地はどこからどこまでなのか。まぁいい、行ってみればわかるだろう。
ところが。市場に入って5分もすると、おのれの考えの甘さに気づかされた。行ってみてもわからなかったのだ! アーケードのなかを縦横無尽にごたごたくねくねと走りまくるせまく暗く暑苦しい路地を押し合いへし合いして進む買い物客がのぞき込むごちゃごちゃと立ち並んだ店というよりはブースといった方がしっくりくる売り場はひどいとこだと1坪もないような代物でどこへ行ってもそんな感じなのだ。どれが何か、何がどこでどうなって敷地はどこからどこまでか、など足を踏み入れてもまったく把握できなかった。
わかったことといえば、たとえば衣類なら衣類、雑貨なら雑貨、骨董なら骨董、と扱ってる商品ごとにエリアが分かれている、ということぐらい。しかもそれもおおよそのところであって、ぽつんと離れたところにぜんぜんちがうジャンルの店があったりもする。が、その傾向だけがこの市場にある秩序のすべてだった。なんて広さだ。なんて店の数だ。なんて人出だ。そして・・・なんて売り物だ!
みやげ物屋のペトロナスツインタワーの置物。世界一高い(当時)ビルだ。しかしちょっと待て、それはマレーシアのビルだ。なんでそんなものをタイで売ってるんだ?
こっちには闘鶏用とおぼしき元気な鶏。店のおっちゃんは通りすがりの外人にまで声をかけてるが、あのなおっちゃん。ちょっと考えてみてくれ。外人の観光客は生きた鶏なんか買わない。売ろうとするな。我々はそんなもの必要としてない。それと観葉植物屋のおばちゃん、おなじ理由でそんな巨大な鉢植えもいらない。うわっ、またでっかいのを持ってきたな。頼むからほっといてください。
怪しい日本語Tシャツ。胸や背中に妙な日本語がでかでかとプリントされていて、思わず吹き出しそうになってしまう。
「が大好き!」・・・何が? 何が好きやねん。気になるわ。
「うれしいね」・・・いや、特には。
「あててごらん」・・・だから何を当てろと?
「エイリアン」・・・人間用じゃないと?
「お花だより」・・・いやはやもう、何が言いたいのか。脱力。
たぶん意味などわからずに使っているのだろうが、なんともツッコミどころ満載。シュールすぎる。これはちょっと欲しいかな。
人の流れに押し戻され、方向感覚を失い、同じ場所を何度もぐるぐるとまわりながらようやくひととおりを見物し終えた頃にはもう夕方になっていた。6時間はここにいたことになる。あー、疲れた。通路の設計がもうちょっとまともだったら半分の時間で見れただろうに。めちゃくちゃせまいし、なんの前触れもなく行き止まりになるし。どうせ適当に設計したんだろうな。
しかし、それにしても。こんなにめちゃくちゃでクソ暑くていい加減な市場なのに、なんでまた来たいと思ってるんだ僕は? マゾか? いや、面白いからだ。売ってる物が、人が、そしてそこから透けて見えるこの国が。いつになるかはわからんけど、絶対にまた来るぞ、タイ!
最終回 最終章 引きこもり 日本へ帰る 2・羽化
0章 真人間、失格 | 1.旅立ち前 | コメント返信(>>52まで) | ||
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1章 バンコク・クライシス | 1.異国の洗礼 | 2.メシア現る | ||
2章 うれしはずかし二人旅 | 1.かんちがい開始 | 2.ネアカの街 チェンマイ | 3.スコータイの仏 | 4.アユタヤの人 |
3章 お別れのち再出発 | 1.かんちがい終了 | 2.僕の深夜特急 | 3.変態inノンカイ | 4.動物三昧ナコンラチャシマ |
4章 引きこもり 日本へ帰る | 1.静けさの前の嵐 | 2.羽化 | あとがき |