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シンガポール航空973便は徐々にその高度を下げ、それにともなって地上の様子が拡大されてゆく。
眼下は一面の田園地帯だ。青々とした広大な田んぼのなかを赤茶けた農道が縦横に走り、それに沿ってヤシとおぼしき木がひょろひょろと生えているのが見える。貯水池であろう野池がそこかしこで水をたたえている。いかにも南国の穀倉地帯といった風情だ。そういやタイの主要輸出物って米だっけか。プランテーション? ・・・はマレーシアか。マレーシアの主な輸出物は確かボーキサイト、錫、天然ゴム、パーム油・・・。
現実逃避だろうか、地理か何かの授業で習った東南アジアの産物が次から次へと脳裏をよぎる。だがそれがなんだってんだ。マレーシアで錫が採れようが採れまいが、今から自分が初めての異国に初めて降り立とうとしている事実を手助けしてはくれないじゃないか。
そんな結論に行き着いてハッと我に返った頃には、田園風景のなかに灰色の建物が目立つようになってきていた。ミニカーをさらに小さくしたような車が忙しげに走っている。どうやら市街地上空に差し掛かったらしい。いよいよ到着なのか。
ガイド本の例と照らし合わせながら、書かれていた英単語の意味もほとんどわからないくせに海外を一人旅しようとしている己の無謀さにいまさらながら愕然としつつも、入国カードはなんとか書き終えた。後はもう着陸を待つばかりなのだ。全身に緊張が走る。尻の穴がしまる。こうなったらもう俎上の鯉、覚悟は決まった。と言いたいところだが、そんな度胸があるはずもなく、僕はまな板をところ狭しとピチピチはねまわる、最高に活きのいいヘタレ鯉なのだった。
しかし、なんでこの飛行機はこんなに揺れてくれるんだ? そもそも僕にはこんなでかい鉄のかたまりが空を飛ぶこと自体信じられない。こんな重たいものが空を飛ぶというのであれば、左右の窓から手を出せば車なども空を飛べなくてはならない。それぐらい飛行機が飛ぶということが不思議なのだ。それに加えてこの振動・・・こ、こえぇ!
さっきまで僕を満たしていた一人旅への不安は影をひそめ、今度はそれよりさらに切実な「この飛行機は墜ちないのか?」という新たな不安に責めさいなまれることになった。こんな高度で爆発などしようものなら、地面に叩きつけられるまでに人生を何度振り返ることになるかわかったもんじゃない。なんでパラシュートが備えつけられていないんだ!
そんなことを考えていると、突然ポーンという電子音とともにシートベルト着用のランプがついた。スクリーンに表示されている飛行機の速度は、ついさっきまで時速800㎞台だったのがいつのまにやら500㎞ほどにまで落ちていた。現状のすべてが緊迫した事態を示している。こっここここれはヤバイんじゃないのか?
あせりを隠しきれず、そっと周囲の反応をうかがう。眠っている者、新聞を読む者、隣の人と話をする者。みな落ち着いたものだ。まるで暖炉の前のソファーにでもいるかのようにくつろいでいる。僕のようにテンパっている者は誰もいない。この危機的状況にあってとても堂々としている。なんという剛の者ども。スチュワーデスにいたってはこの揺れのなか、顔色一つ変えずに歩きまわっている。
ひょっとしてこれが正常なのか? 毎日ほど飛行機に乗っているであろう彼女たちなら、異変があれば真っ先に気づくことだろう。それがこれほど落ち着き払っているということは・・・。そ、そうか。そりゃそうだ。ニュースでも新聞でも飛行機が墜ちた、なんてことは滅多にない。だからこそ空港にあれだけの人がいたのだ。この揺れはただ単にパイロットが若葉マークなだけだろう。少し落ち着きが戻ってくる。
それからほどなく、そのスチュワーデスたちも補助席のようなイスに着き、シートベルトをし始めた。一瞬ビビったが、彼女らの表情はあくまで穏やかだ。墜落とはなんの関係もないらしい。ということはいよいよ着陸なのだろう。
窓の外に目をやる。タイの大地はすぐそこまで迫っていた。
飛行機を降りたとたん、なんとも言えない南国の空気に包まれた。なんというかこう、独特な匂いがする。不快なものではないが、日本にはない、僕の知っているもののどれにも例えようのない匂い。そして湿度が高いのだろう、生暖かく、毛穴にまでもぐり込んでくるような粘り気のある大気だ。もちろん気温も高い。機内の放送ではバンコクの気温32度とか。で、確か大阪は7度だった、ってことは・・・25度差! なんてこった! 僕が南河内でうだうだしてる間に、世間は6時間イスに座っているだけで夏になるほど進歩してたのか!
服装は厚手のトレーナーにジーンズ。暑くないはずがない。100メートルも歩かないうちに汗がにじみ出す。厚着の内側にかく汗は非常に気持ち悪い。これはいかん。どこかで着替えなければ。
しかし入国審査場のありかがわからない僕は、前の団体客についていくのに必死で、着替えなどどこでどうすればいいか見当もつかない。そうこうしているうちに、入国審査場についてしまった。
悪いことをしていないのにドギマギしながら、入国審査を受ける。
いつもこうだ。日本でも職務質問を受けた時や免許証の提示を求められた時などは、意味もなくあわてふためいてしまう。今回もかなり怪しい動きをしていたにちがいない。目を泳がせながらパスポートを受け取り、うつむき加減で足早に審査カウンターを通り抜ける。係官のうさん臭そうな視線が痛かった。
審査をすませると、寿司のようにまわっていたザックを手に取り、ためつすがめつチェックする。中身を抜かれたりすることもあるらしいが・・・怪しいところはない。気合いとともに一気に背負う。
う。こんなに重かったっけ? 抜かれるどころか何か入れられたんじゃないか? 20㎏ぐらいありそうだ。こいつを背負ってこの常夏の国を歩くのか・・・。考えただけでクラクラしてきた。
とりあえず、近くにあったトイレで着替えることにした。短パンにTシャツ、サンダルの南国仕様にモデルチェンジする。今まで着ていた北国仕様をザックに詰め込むと準備は完了だ。これでよし。いや、よくはないがこれ以上どうしようもない。準備は終わってしまったのだから、外に出るしかない。初めて戦場に出る新兵の気持ちはこんな感じなのだろうか。愚にもつかないことを考え、一度大きく息をつくとトイレを出た。大丈夫だ。入国審査も難しくなかった。忘れ物もない、たぶん。ザックには南京錠もかけてある。ティッシュもハンカチも持っている。大丈夫だ。大丈夫だと思う。と言うよりは、もうここまで来たら大丈夫だと思って行くしかないのだ、たとえそうであろうとなかろうと!
胸のうちでのたうちまわる心臓をなだめすかし、弱気の虫と戦いながら到着ロビーへと歩を進める。ここを出ればそこはもう生身の、本当のタイなのだ。
訪れる人、帰ってきた人。働きに来た人、バカンスに来た人。それぞれがそれぞれのドラマを、またある人はご禁制のブツを胸に抱き、ゲートをくぐる。ロビーに入ってすぐの空間では出迎えの人たちがどこかそわそわした表情を浮かべ、入り口から吐き出される人の列を見守っていた。
当然ながら、そのなかに僕を待っている人は一人としていない。それどころかこの国には僕を知る人間すらいないのだ。もちろんそれは重々承知でむしろ望んですらいたことだったはずなのに、いざそのシチュエーションに直面してみると言いようのない寂しさがこみ上げてきた。歓声を上げて抱き合う家族の横を無言で通り抜けると、僕はバンコク市内行きの列車へ乗り込むべくドンムアン駅を目指した。
ガイド本によるとドンムアン駅は空港に併設されていて、空港前の幹線道路をへだてたすぐ隣に見えてもいるのだが、そこへたどり着くまでの連絡通路はなかなかみつからなかった。あっちで行き止まり、こっちで迷う。空港から出るのがこんなに難しいとは・・・。
ここでガイド本を読めば問題は解決するのかもしれない。が、そんな旅の初心者を証明するような行動は悪人をおびき寄せる結果にしかならない、というのはちょっと考えれば僕でもわかる。・・・バスにするか。バス乗り場ならロビーを出て正面だ。「世界の車窓から」が好きな僕としては鉄道を使いたかったが、この際しかたない。
1階に降り、バス乗り場へと向かうべくロビーを歩いていると、不意に声をかけられた。
「ヘイ、ミスター!」
振り向くと、目のギョロッとした年齢不詳の男が立っていた。どこか卑屈な笑みを浅黒い顔に貼りつけている。
まさか悪者か? 早くも悪者の登場なのか?
僕がすっかり自分の殻に閉じこもってバリケードを張りめぐらせているのにも気づかず、奴はペラペラペラとまくし立ててきた。
「ミスター、タクシー?」
タクシーに乗れ、ってか? 冗談じゃない、誰がアンタみたいな怪しいのについていくか。
無視を決めこみ、立ち去ろうと振り返ったその時。僕は自分の置かれた状況にようやく気がついた。同じような男たちに包囲されていたのだ。彼らはじりじりと距離を詰めながら、思い思いの言葉を浴びせかけてきた。
「ミスター、タクシー?」
「チープホテル、チープホテル!」
「ワタシにほんごワカルナ」
「フェアユーゴー?」
なかには目を血走らせ、鬼気迫る表情で何やら日本語の書かれた紙切れを差し出している者もいる。ひ、ヒィィィィィ! なんじゃこいつらは! バリケードを易々と踏み越えてきやがる! 来るな、あっち行け!
見た目でなめられまいと僕は不精ヒゲを伸び放題にし、いかにも怪しい雰囲気を演出して日本を出たつもりだったのだが、その効果はまったくなかった。それもそのはず、話しかけてくる連中の方が十倍は怪しいのだ。「ノーサンキュー!」を連呼しながら足早に彼らを振り切り、僕はまたしてもトイレの個室に逃げ込んだ。
・・・まずい。本格的にマズイ。なんだあのゾンビみたいな連中は! めちゃめちゃこわいやん! あの本の作者はウソつきだ、こんなに恐いなんてどこにも書いてなかった! もしかするとこの先、ずっとこんな感じなのか? どうしよう、これから・・・。帰りたい。着いてからまだ1時間もたってないけど、そんなことはどうだっていい。マジ帰りたい。こんなことなら、さっきの入国審査で瞳孔を開くなり失禁するなりして強制送還になればよかった。そうすればこんなホラーな国に入国せずにその場でUターンできたのに。
一気にモスラ並みに巨大化した弱気の虫に押しつぶされ、僕はただただ途方に暮れるばかりだった。帰りの航空券が今すぐ使えれば間髪入れずに出国カウンターへダッシュするところだが、残念ながらこれが有効になるのは十日後。その日まではなんとかこの国でサバイバルするしかない。
とりあえず、安い宿と食を確保できる場所までたどり着こう。そこで十日間息をひそめ、影のようにひっそりと命をつなぐ。活路はもうそこにしかない。そのためには、当初の予定通り安宿街のカオサンへ行こう。バス乗り場近辺は例のゾンビどもが待ち伏せしている可能性が高い。鉄道だ。鉄道しかない。なんとしても駅まで到達する必要がある。幸い、ここでなら思う存分ガイド本が読める。
連絡通路の位置を確認してトイレを脱出すると、辺りをうかがいながらこそこそと駅へと向かった。
ドンムアン駅は国際空港駅とは思えないほどこぢんまりとしていた。人影もまばらだったが、それがかえって安心できた。よかった、悪人の手はここまでは延びていないようだ。
何はともあれ、とりあえず切符を買わなければならない。 ・・・で、売り場はどこだ?
ホームのなかほどに窓口らしきものはあるのだが、閉じられたカーテンが〝機能してません感〟をそこはかとなく醸し出している。それでは、と辺りをくまなくさがしてみるが、他にそれらしいものは見つからない。
どうなってんだ? どこで買えばいいんだ? さっきから迷ってばっかりじゃないか。こんなザマでちゃんと旅ができるのか? ちゃんと帰れるのか? 無言の帰宅だけはしたくないぞ・・・。
涙目でまごまごすること数分。気がつくと、いつのまにやら例の窓口には行列ができていた。なんだ、何が始まるんだ?
様子をうかがっていると、おもむろにカーテンがシャッと開け放たれ、駅員が切符を売り始めたではないか。休憩中だったのだろうか。それにしたって、さっきは行列なんてなかった。なんで今になって・・・? 首をかしげながらも、最後尾に並んで切符を買う。と、ほぼ同時に列車がやってきた。そうか、窓口は列車の到着に合わせて営業してるのか。これがタイでは当たり前なんだな。
切符を買うことなど旅においてほんの些細なことなのだろうが、買い方を知っているのと知らないのとでは安心感は雲泥の差だ。「ガイド本にも書かれていないことに自力で気づいた」という事実は、少しだけ僕の心に自信の灯をともしてくれた。
古い鉄の箱、といった感じの無骨な客車に乗り込む。車内はとても混雑していた。ザックを背負ったままでは人とすれちがうのもひと苦労だったので、手に持つことにした。
周りはすべてタイ人とおぼしき人たちばかりだ。なかには鮮やかなオレンジ色の衣をまとった僧侶もいる。ビルマの竪琴みたいだ。旅行者はめずらしいのだろうか、あちこちから飛んでくる奇異の視線を浴びながら、空席をさがして歩く。ほどなくして無人の座席をみつけ、荷物を抱きかかえるようにして腰をおろした。ふぅ。疲れた。
やがてガクンと車体が揺れ、列車が動き出した。いよいよバンコク市街へ出発だ。乗車前に確認したプレートの行き先は「Bangkok」となっていたので、おそらく終着駅はバンコクなのだろう。このままおとなしく座っていれば目的地まで運んでくれるはずだ、たぶん。
一抹の不安を感じながら、窓の外に目をやる。そこには、初めて訪れる国の日常が展開されていた。まるっこいタイ文字が躍動する看板。見たこともない、色鮮やかな南国の花々。線路脇に密集する粗末なバラック。窓から手を出しているとぶつかってしまいそうな距離だ。そして、歓声をあげながらその間を走りまわる子供たち。建設途中で放棄されたような、ボロボロなのに妙に整然とした廃ビル群。橋の下を流れる墨汁色の川。見たことも聞いたこともない風景。日本の一道一都二府四十三県、どの路線のどの列車に乗ってもお目にかかれないパノラマだ。
しかしそれはただ単に僕が知らなかっただけのことで、この光景は僕が来る以前、たとえば昨日もここにあったのだろうし、そしてそれらは来る日も来る日も同じようにくりひろげられていたのだろう。そんな当たり前のことになぜか奇妙な感慨を覚えた。
1時間半ほどののち、列車はバンコク中心部、ホアランポーン駅に到着した。大きなドーム状のアーチに覆われた、タイ国営鉄道の中心駅だ。電光掲示板と年代物のディーゼル機関車。構内のインターネットカフェと紙製のぺらぺらな乗車券。現代のデジタル感と旧き良き時代のアナログ感が渾然一体となって、まるで夢のなかにいるような不思議な感じだ。
それはいいとして・・・どうやってカオサンへ行けばいいのだ?
ガイド本を読みたいのは山々だったが、駅ホールにも大勢の人がいた。やめたほうがよさそうだ。どう見ても初心者丸出しの行為。たかってくれと言っているようなものだ。
タクシーならすぐ前の大通りにたくさん走っている。だが、呼び止めても大丈夫だろうか。僕のまゆつば英語は通じるだろうか。いや、そんなことより、人気のないところへ連れ込まれて持ち物を強奪されたりしないだろうか。刺されたり撃たれたり罵倒されたりしないだろうか。他人とコミュニケーションをとるのは大の苦手だ。日本でもそうなのに、ましてやここは外国。まともに意思の疎通ができるとは思えない。さっきの窓口では僕を旅行者と見抜いてむこうから「バンコク?」と聞いてくれたのでうなずくだけで済んだが、今回も同じようにいくとは限らないのだ。
乗り物はこわい、となれば歩くしかない。空港トイレでチラッと見た市内の地図では距離まではわからなかったが、カオサンは確か駅から左上の方だったはずだ。方位磁石で方向を確かめながら歩けばそう的外れなところには出ないだろう。で、折を見て地図を確認すればいい。よし、それでいくか。ザックを背負い直し、僕は左上へと歩き出した。
これがあの本にもあったバンコクか。なんてごちゃごちゃした街なんだ。
初めて訪れた街に対して抱いた印象はなんとも失礼なものだった。大きな建物はそれを誇示するかのようにひたすらでかく、小さな建物は申し訳なさげにこぢんまりと建っている。新しい建物はどこまでもピカピカ、そうでない建物はどこまでもみすぼらしい。そしてその並びや配列にはなんの脈絡も前フリもなく、思いつきでここにビルを建ててみました、こんな感じで適当に道をつくってみました、なんとなくここに電話ボックスを置いてみました、といったやる気のなさがひしひしを通り越してビシビシと伝わってきて、なんというかこう、一言で言うとカオスだ!
過去数十年を欧米諸国を目標にしてやってきた日本は、地理的にはアジアに属してはいても街並みは西洋化していると言っていいだろう。長年そこで暮らしてきた僕にとってこの街の様式は全く異質で、異文化そのものだった。そうか、これがアジアらしいアジアの姿なのか。要するに統一性というか計画性というか整合性というか、そういったものがまったく感じられないのだ。一つ一つを見れば機能的であるものを無計画に寄せあつめ、結果非機能的にしてしまった。そんな印象を抱かせる。
そして、この街は非常にアップダウンが激しい。ドブのような、というかドブそのものの臭いを放つ川にかかる橋はまるで山のようにこんもりと盛り上がっていて、歩道の段差もへたするとひざ上ぐらいの高さがある。それらが連続するようなところにさしかかると、まるで20㎏の荷物を背負って踏み台昇降をさせられているような錯覚に陥ってしまう。暑さも手伝って、僕は十分もしないうちに汗だくになってしまった。
それからさらに十分後。僕は途方に暮れていた。
・・・完全に道に迷った。
方向感覚から推すと、近づいているのはまちがいない。が、それ以上のことはまったくわからない。考えてみれば、もともとなんとなく「左上」の方へ向かっていただけで、道順を把握して歩いていたわけではないのだ。この結果は当然と言えた。周りに怪しい奴もいないようなのでガイド本の地図を開いてはみたが、現在地がわからなければ地図もただの紙切れでしかない。
陽は西に傾き、街は闇に包まれつつある。流れる汗が次第に冷たいものに変わってゆく。駅でともした勇気の灯はとうの昔に消えている。こんな得体のしれない街を夜歩きしようものなら、3分ごとに強盗に襲われたりするにちがいない。ニュースとかでも言ってたぞ、「外国で夜出歩こうとする神経を疑う」って。やばい、急がなければ!
地図に載っている大通りへ出ればなんとかなるだろう、としばらくうろうろしてみたが、同じような風景ばっかりでどうも要領を得ない。ただ時間だけが過ぎていき、闇の色はいよいよ濃い。・・・もうあかん。ここまでか。寄ってたかって身ぐるみはがされて殺されて、そのへんに転がされるんだ。
声をかけられたのは、そんな時のことだった。
びっくりして振り向くと、なんとも奇妙な、バイクと車を足して2で割ろうとして割りそこなったような乗り物のなかから男が顔を出していた。
とっさのことにどう反応していいかわからない。ふたたび声が飛んできた。
「タクシー?」
タクシー? そうだ、これはタクシーだ。ガイド本に載ってる。トゥクトゥクだ。
できれば自分の足でたどり着きたかったが、もうすぐ完全に日が落ちてしまう。そうなると徒歩よりこっちのほうがましだろう。勇気をふりしぼり・・・というよりはそうする必要に駆られ、運ちゃんに話しかけた。
「・・・カオサン?」
運ちゃんは自慢げにうなずき、乗れ、というように座席を指した。おおっ! 知っているのか、運ちゃん!
少し緊張しながら座席に乗り込む。2ストローク特有の、咳き込むようなけたたましいエンジン音をまき散らしながら、トゥクトゥクはカオサンへ向けて走り出した。
異国の人とコミュニケーションをとれた喜びを差し引いても、トゥクトゥクの座席はとても気持ちよく感じられた。赤と青のポップなツートンカラーは見ているだけで陽気になるし、座席に屋根がついただけのシンプルな造りは開放感があり、通り抜ける風が体の熱を優しくうばってゆく。バックミラー越しに見える運ちゃんの表情もおだやかで、時おり目が合うとにっこりと微笑んでくれる。「微笑みの国タイランド」ってキャッチフレーズは本当だったのだ。度胸も知識も経験も、それどころかまっとうな人間としての能力すらないくせに勢いだけで日本を飛び出した引きこもりニートにとって、敵意をみじんも感じさせない彼の笑顔はそれだけで心を落ち着かせてくれた。
ジェントル運ちゃんのおかげで、暮れなずむ街の光と影のなか、バンコク市街を愛でる余裕なども出てきた頃。それまでに快調に疾走していた我らがトゥクトゥクのスピードが次第に鈍り始めた。
原因はすぐにわかった。渋滞だ。それもただの渋滞ではない。大渋滞だ。あちらから来た車の群れとそちらから来た車の団体がこちらを走る車の集団と合流し、収拾がつかなくなっているのだ。立ち往生した無数の車両が膨大な排気ガスを吐き出し、交差点で交通整理に当たる警官はマスクをかけて作業に臨んでいる。
こいつは困ったね、と運転席の紳士を見やった瞬間。彼の目がキュピーンと光った。・・・なんですか? 何を企んでやがるんですかおまえは? こちらを見た。目が合う。ニヤリと唇をゆがめた次の瞬間、彼は思いっきりアクセルをひねった! むち打ちになりそうな衝撃とともに、ウィリーせんばかりの急発進をかますトゥクトゥク。ぬぉあ! おいっ、何してんねん!
屋根の支柱にしがみつき、固唾をのんで見守っていると、彼はハンドルを器用にあやつって車の間を縫うようにギュンギュンと走り始めたではないか。確かにトゥクトゥクは車より小回りが利く。が、同じことを考えている他のトゥクトゥクもそこかしこにいる。なにより、トゥクトゥクよりさらに数の多いバイクもまた、車の間隙を縫ってビシバシ走っているのだ。
通りはてんやわんやだった。
あっちで急ブレーキを踏んではこっちでバイクにかすり、かと思えばそっちでは進路をめぐってクラクション合戦が始まる。そしてこの運ちゃん、さっきまでのジェントルさはどこへやら、目をつり上げながらかなりの無茶をしてくれる。入るべきではないスイッチが入ってしまったようだ。僕はただ座席に座っているだけなので周囲がよく見え、運ちゃんの死角から高速で車両が迫るたびに「はぁあっ!」とか「ぅうおぁたる!」などとわけのわからない声が口をついてしまう。「頭のネジが一本飛んでる」という表現があるが、この時の彼の走りは「ネジが一本残ってる」という表現こそがふさわしい過激なものだった。
渋滞エリアを抜けて快適に走れるようになっても、ネジのほとんどをどこかで落としてしまった彼の走りは激しさを増すばかり。ぐっぐっ、具体的に言うとこここんな感じだ。
・交差点を曲がる時、4回に1回は片輪を浮かしながら曲がる。雑伎団も真っ青。
・遅い車は徹底的にあおり倒す。特に高級車と他のトゥクトゥクには敵意をむき出しにする。
・凸凹があってもスピードは落とさない。しゃべっていると舌を千切りにしてしまう。
・時おりこちらを見、「どうよ、俺の走りは?」とばかりにニヤリと笑う。頼むから前見てくれ。
・・・あかん、こいつすでに自分をシューマッハだと思っている。しかしシューマッハなのはヤツの脳内だけで、腕はといえばどう見てもそのへんの兄ちゃんだ! た、助けてくれぇぇぇえ! イヤアアアアアァァア!
上下左右に激しく揺さぶられつつ、頭の片隅でタイヤの神様に祈りながら、僕はただひたすらに支柱へしがみついた。
恐怖の時間を二十分ほど過ごしただろうか。運ちゃんはにぎやかな通りの前でマシンを止め、「ここだ」というような仕草をした。このド派手な一帯がカオサンなのか? 指を指し「?」と視線で問うと、彼はにっこりとうなずいた。いつのまにかジェントルモードに戻っている。
100バーツ札をジキル博士に渡し、荷物を背負う。足もとがおぼつかないのは内臓をおもいっきりシェイクされたからだ。もしシェイカーを持って乗り込んだらさぞかしすばらしいカクテルができるにちがいない。トゥクトゥクから降りると、よろよろとカオサン通りへ分け入った。
カオサンはひとことで言うと「ありえない縁日」だった。奥行きは3、400メートルほど。そう広くない通りの両側には雑貨屋やらレストランやらバーやらの店舗がズラッと軒を連ね、さらに歩道には屋台やみやげ物などの露店がビッシリと、まっすぐ歩くのも困難なほどに並んでいる。その様子はここへ来るまでに見たバンコク市街とは明らかに雰囲気がちがっていた。なんなんだ、ここは。うまくは言えないが、雑多なのは同じだが雑多さの質がちがう。
そしてそれらに追い打ちをかけるのが、通りを闊歩するおびただしい人の群れ。世界各国から集まった旅人たちが、オーパーツのようなものを並べた露店を見て歩いたり、酒場に集結して乱痴気に騒いだりしている。そこかしこから生えている看板の文字がほとんどが英語なのも旅人の多さゆえだろう。こっ、このなかを歩かないといけないのか。
見れば見るほど、自分がどこの国に来たのかわからなくなってくる。いや、どこの国とか街とかというより、この異様さは「別の星」、あるいは「パラレルワールド」といった方が正しいような気がしてくる。もしこの界隈のレストランで何か注文しようものなら、蛍光グリーンのスープに漬かった、足が40本ほどあるクリーチャーの姿煮がドカッと出てきそうな・・・そんな感じだ。
あんぐりと口を開け、おのぼりさん丸出しでウロウロきょろきょろしていたのだが、ハッと重要なことを思い出した。そうだ、宿だ。宿をさがさねば。そのためにここへ来たのだ。しかしどうもイヤな予感がする。これだけの人がいるのだ。はたして部屋は空いているだろうか。というか、このリア充のるつぼのような場所で、僕のような貧相な男を泊めてくれるのだろうか。他の旅人たちのようにタトゥーを入れたりドレッドヘアにしたり、とにかくはっちゃけた格好をしなければ旅行者と認めてもらえないんじゃないだろうか。不安はつのるばかりだが、聞いてみないことにはわからない。人の海を泳ぐようにしてかきわけつつ、宿をさがしてまわった。
ほどなく、「HOTEL」と書かれた一枚の看板を見つけることに成功した。そのまま視線を横にずらし、看板が生えている建物に目を移す。 ・・・え、これが「ホテル」? ホテルっていうとなんかもっとこう、豪華というか瀟洒というか、そんな感じなのでは???
そこにあったのは「ちょっと立派なバラック小屋」だった。うーむ、これはまぁ、なんともはや・・・。でもまぁカオサンは安宿街ってことだったし、これでいいのか。一流ホテルに泊まれるほどふところに余裕があるわけでもなく、あきらめてフロントっぽい印象を与えるカウンターへ向かった。
カウンターではTシャツにホットパンツ姿のラフな格好をしたおねえちゃんが雑誌を読みながら、何か得体のしれないものを食っていた。およそ従業員らしからぬ態度だが、カウンターにいるからには従業員なのだろう。
「ル、ルームプリーズ」
緊張を隠しきれない。こんな英語が正しいのかどうかはわからないが、意味は通じたようだ。
「ノールーム」
首を振りながらにべもなく答える彼女。悪い予感は的中した。やはり満室か。これだけ旅人が集まっているのだ、無理もない。次をさがそう。
・・・。
・・・・・。
・・・・・・・・。
がんばったのに。がんばって見ず知らずの他人に三回も話しかけたのに。それも英語で話しかけたのに。これ以上どうしろと・・・。
その後たて続けに三軒の宿に断られ、僕はまたしても途方に暮れていた。疲労と虚無感に体力を奪われ、背中のザックがずんずんと重くなってくる。次をさがさなければ、と頭ではわかっているのだが、心は「どうせ次もダメに決まってる・・・」とあきらめモードに入っている。もうええねん。何やってもあかん男やねん。生まれてからずうっっっっっっとそうやねん。
涙目で通りをさまよいながら、これからのことをシミュレートしてみた。
このまま夜が更ける → やむをえず野宿する → さらに夜が更け、深夜になる → 人通りがなくなる → 闇にまぎれて悪者が暗躍する → 失意のうちに路地裏で眠る僕を発見する → ニヤリと笑い、ふところからナイフを取り出す → ・・・!?
あっ! 死ぬ! 殺される! アカン! なんとしても宿だけは、命だけは確保しなければ!
それからの僕には鬼気迫るものがあった。ものすごい勢いでかたっぱしから宿屋の受付を直撃する。今の僕ならどこのお宅の夕ご飯でも突撃できるだろう。なんせ命がかかっているのだ。
七軒目は宿屋というよりはちょっとマイルドな牢獄、といった外観だったが、そんなことに構ってはいられなかった。
「ルームプリーズ!」
用件を絶叫する。しかし、受付の兄ちゃんはこちらをジロリと一瞥すると面倒くさそうに立ち上がり、どこかへ行ってしまった。ああ、ここもアウトか・・・。
ほどなくして、彼の消えた方から声が飛んできた。
「シングル?」
わけがわからず立ちつくしていると、少しいらついたような声で再び、
「シングルルーム?」
彼は少し離れたところにかけてある部屋のキーを取りに行ったのだった。カクカクと壊れた人形のように頷き、キーを受けとる。150バーツを支払い、部屋に直行すると荷物を投げ捨て、大の字でベッドに倒れこんだ。やった。部屋を取れた!
自らの努力で勝ち取った、自らの居場所。このベッド、ボロいのになんて気持ちいいんだろう。極上の安堵感と達成感に包まれながら、僕はゆっくりと目を閉じた。
気がつくと、僕は起きたところだった。時計の針は23時を指している。部屋のなかは薄暗く、廊下と部屋を隔てるドアのすき間から漏れてくる光は弱々しい。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。雨露をしのげる場所と少しの睡眠を得たことで元気は多少回復していたが、腹はこれ以上ないほどに減っていた。そういや機内食しか食ってなかったっけ。
鉄格子の入った窓から下をのぞく。深夜に近い時間にもかかわらず、通りにたむろする人の数は減るどころか増えているように思える。この様子ならここら一帯であれば出歩いても大丈夫そうだ。
屋台でも行ってみるか。いや、ここへ来るまでに何度か見てきたが、日本の保健所員が見たら経営者を小一時間は問い詰めそうな不潔感だった。あんなところでめしなど食おうものなら5秒以内に腹をくだすことだろう。腹の特に弱い人なら食中毒で即死してもおかしくはない。やめ。
じゃあレストラン? でもガタイのいい白人がいっぱい群れてたなぁ。「F●ck!」とか言われそうでこわい。それに何より、注文する際に他人に話しかける必要がある。それも英語で。出てくるのも蛍光クリーチャースープとかだろうし、これもやめ。
ではどうするか。実は宿を求めて歩いていた時、ベストなものを発見していた。コンビニだ。タイにもコンビニがあるのだ。これなら商品を持ってレジへ行くだけで食料をゲットできる。よしおk、行くか。
結局、すぐ近くのファミリーマートでパンをいくつかと、ミリンダというファンタによく似た缶入りドリンクを買って宿に戻ってきた。しかし日本を出てまでコンビニか。我ながらしょぼい。こんなものを食っているとまったく外国に来た気がしない。この環境に慣れてきたらタイ料理にも挑戦してみたいなぁ、ってなんだこのパンは。具はツナのようだが・・・甘いぞ? それにこのショッキングピンクと黄緑色のクリームは食っても大丈夫なのか? パンまで変だなこの国は。まぁいいか、一回ぐらいなら死にはしないだろう。コンビニは日本並みにきれいだったし。
深夜だというのに、部屋には相変わらず湿度の高い熱気がよどんでいる。壁ぎわのスイッチを押す。天井からぶら下がった年代物のファンがゆっくりと、面倒くさそうにまわり始めた。ガタガタガタガタ・・・。今にも落ちてきそうな音をたてて揺れている。酔っぱらった旅行者のものであろう奇声が、通りのざわめきとともに窓の隙間から耳に届いた。
あらためてまわりを眺める。三畳ほどのせまい空間。壁のあちこちに英語の落書きがある。傾いた木製のベッド。ガイド本の文字を追うのがやっとなほど暗い蛍光灯。何もかもが古ぼけているなかで、数日前に買ったザックだけが不自然なほどに新しい。ケッ、ケッ。天井のヤモリが鳴いた。
自分の部屋とはぜんぜんちがうけど、これはこれで現実なんだよな。
どうやら人は異国に出るとセンチメンタルな気分になるらしい。今日ここへ流れ着くまでのことを思い出してみた。最初はどうなることかと思ったけど、やってみればなんとかなるもんだ。人間的にちょっとは成長できた、かな? そんな気がする。
今更だが、僕はなんで日本を出ようと思ったのだろうか。うまくは言えないが、「衝動的に」というのが一番近いような気がする。あの本を読んだら居ても立ってもいられなくなった。アジアへ行けば自分を変えれるような気がしたのだ。
そうだ、変えたい。どうしようもない今の自分と決別したい。そのためにはいつもと同じことをしていてはダメだ。多少こわかろうとも、明日からはいろいろと行動してみよう。そのためにここにいるんだ。バンコクを歩きまわってやろう。観光なんかもしてやるぞ。
最後のひと口をミリンダで流し込むと、決意がにぶってしまわないうちに寝ることにした。闇のなか、目を閉じる。ベッドの上で心が安まるのはタイも日本もなんら変わりなく、満腹も手伝ってほんの数分で再度の眠りに落ちた。
昼過ぎに目を覚まし、窓から外を見下ろしてみると、そこは日本ではなかった。
・・・夢じゃなかったんだ。来てしまったんだ、タイへ。東南アジアへ。それも一人で。
ねぐらを確保して迎えた二日目。緊張の糸が切れ、初日の勢いを失った状態で己の置かれた立場を考えてみると、ゆうべの決意などは一瞬にして消え去り、結局この日、僕は宿から離れることができなかった。
宿のベッドの上でうだうだと過ごし、空腹はコンビニで満たし、おそるおそる外の様子をうかがい、ただそれらを繰り返すだけ。どこかへ出かけることも、誰かと会話をすることもない無為な一日。なんのことはない、日本で引きこもるかタイで引きこもるかだけのちがいだ。そもそもタイくんだりまで敗者復活戦のような旅をしに来たのは自分がダメ人間だからであって、そうでなければ今頃はまっとうな人間として日本でそれなりに楽しく暮らしていただろうし、そうであればこんな国にくることもなかったのだ。
自分を変えたい、でも変えられない。決死の思いで賽を投げてはみても、すべてのマスが『ふりだしに戻る』のすごろくのような僕の精神世界。自分が自分である以上必ず陥る、当然のジレンマ。そんなことは自分でも、いや自分だからこそよくわかっていたが、わざわざ大枚をはたいてここまで来たのはなんのためかと自問すると、石にかじりついて総入れ歯になってでも何かをつかんで帰りたかった。今のまま日本へ戻っても、待っているのは以前と変わらない無気力で無感動で無意味な毎日だろうが! ・・・とは言っても、そう簡単には・・・。ないのか、何かいい手は。
今の僕が情報を入手できるのは、このガイド本だけだ。ぱらぱらめくっていると、カオサン周辺の地図に目がとまった。それによると、カオサン通りから見て北西の方角にプラ・スメンという公園があるらしい。十分に徒歩圏内、というかすぐそこだ。歩いて5分ぐらいか。広い川に面した、なんとなくよさげな公園だ。
よし、ここへ行こう。観光スポットは観光しないといけないような気になるが、ただの公園なら特に何かをしなければいけないということはないし、誰かと会話する必要もない。ただボーッとするだけでも文句を言われたりしないはずだ。とにかくここで閉じこもっているのが一番よくない。明日は場所を変えて公園で呆けよう。それだって変化といえば変化だ、今のこの状態にくらべれば。そうすることでささやかなのろしを上げ、今までのダメダメな自分に反撃を開始するのだ。
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2章 うれしはずかし二人旅 | 1.かんちがい開始 | 2.ネアカの街 チェンマイ | 3.スコータイの仏 | 4.アユタヤの人 |
3章 お別れのち再出発 | 1.かんちがい終了 | 2.僕の深夜特急 | 3.変態inノンカイ | 4.動物三昧ナコンラチャシマ |
4章 引きこもり 日本へ帰る | 1.静けさの前の嵐 | 2.羽化 | あとがき |