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いつまでも旅していたいのは山々だが、路銀も心許なくなってきた。そろそろバンコクへ戻り始めなければならない。でもできるだけいろんな町にも行ってみたい。検討に検討を重ねた結果、すぐ南のウドンタニまでバスで移動し、そこからナコンラチャシマまで鉄道で南下することにした。
ガイド本に書いてあったバス停は、と。ここか。荷物を投げ出してその上に座り込み、バスを待った。
30分が過ぎた。バスは来ない。仕方ないな、田舎だし。
1時間が過ぎた。バスはまだ来ない。さすがタイだw
2時間が過ぎた。待てど暮らせどバスは来ない。
この時点でようやくおかしいと思い始めた。何度もガイド本を見直す。が、場所はまちがっていない。うーん、これは一体?
すぐ近くにあった家の軒先では、5、6人の兄ちゃんたちが何やら退屈そうにだべっていた。昼間っから仕事もしないで・・・いい身分ですね。と、自分のことを棚に上げつつ横目で眺めていたのだが、あたりには他に話を聞けそうな人もいない。やむをえず、ガイド本を持って彼らのところへ歩み寄った。
「ウドンタニへのバス乗り場はどこですか?」
「・・・・・」
そうじゃないかとは思っていたが、やはり英語は通じなかった。確かクンのしゃべってたウドンタニの発音はこんな感じだったか。
「ウドーンターニーへのバス乗り場は・・・」
「ウドーン? バス?」
一人が聞き返してきた。地名と「バス」だけは通じたようだ。ここぞとばかりにこちらも単語を返す。
「イエス、ウドーン、バス、ゴー」
「おう、そうか。わかった」
そんな感じでまた別の一人が腰を上げ、「ついてこい」というように歩き出した。案内してくれるようだ。
バス停はガイド本に書かれた位置から300メートルほど南、通りを一本はさんだところにあった。ガイド本はたまにこういったことをやってくれる。地図がどう考えてもおかしかったり、営業しているはずの店がなかったり閉まってたり。取材した時点では正しかったのかもしれないが、現状では正しくない情報が結構な割合で混ざっているのだ。それを鵜呑みにすると、さっきのように来るはずのないバスを3時間も待つはめになったりする。気をつけなくては。
バス停まであと50メートルほどのところにさしかかった時、左手の方からそれらしきバスがやってきた。
「ウドーン、ウドーン!」
せっぱ詰まった声を上げながら、兄ちゃんはそのバスを指さしている。
「え、あれ?」
「そうだ、あれだ! 急げ!」
こんな時に言葉はいらない。お互いの表情とジェスチャーで相手が何を言いたいのかはすぐにわかった。ザックのベルトを肩に食い込ませながら必死に走り、なんとか乗り込むことができた。
窓から後ろを見ると、兄ちゃんは笑顔で手を振ってくれていた。こちらも振り返す。この国の人はなんでこんなに親切なのだろう。親切にされるとなんでこんなにうれしいんだろう。
過去を思い返してみると、無償で他人の手助けをした記憶などまったくといっていいほどなかった。いつも自分のことばかりだった。これからはほんのちょっと、余裕のある時にでも手助けしてみようかな。少なくとも、この国で受けた分ぐらいは。
バスターミナルでトゥクトゥクを拾い、駅へ。バス待ちで無駄な時間を過ごしてしまったので、散策に使える時間はいくらも残っていなかった。夕方の列車には間に合いそうだが・・・どうしよう? この町で一泊してナコンラチャシマ行きは明日にするか? ・・・いや。帰りの飛行機代を考えると、使える金はあまりない。行程はできるだけ早めに消化しておきたいところだ。2時間だけ町を見てまわる、で、夕方の列車に乗る。決まり。駅員室に荷物を置かせてもらうと、ウドンタニ市街へと繰り出した。
駅を出たすぐのところに奇妙な露店があった。赤と黄色、原色の派手な液体を詰めてしっかりとふたをされたビンがいくつも置いてある。日本人的な感覚で推し量るとワイン、もしくはジュースといったところだが、僕の勘はそうじゃないと言っている。はてさて、これは? 気になったので離れたところから様子をうかがうことにし、客の訪れを待った。
やがてバイクに乗ったおっちゃんがやってきた。額に深いしわの刻まれた、労働者風の身なり。やはり酒か? 酒なのか? なんだ、普通じゃないか。
ビンを受け取ったおっちゃんはおもむろにふたを開けた。グッと一気に飲み干す・・・のかと思いきや、彼は思いもよらない行動に出た。バイクのシートをぱかっと開け、なかのキャップを外すと赤い液体をどぼどぼと注ぎ始めたのだ!
は? それってもしかして、ガソリン? そ、そんな引火性の揮発性物質をただのガラスビンに詰めて売ってるのか? ガソリンというより火炎ビンを展示しているようなものだ。日本の消防局員が見たら助走をつけて殴るレベル。なんとおそろしいことを!
どうか爆発しませんように。もし爆発するなら僕が近くにいない時にしますように・・・。タイ人の底抜けないい加減さにガクブルしながらその場を離れた。
その後もあてどなくぶらぶらと歩いてはみたものの、先ほどの露店以上のインパクトがあるものは発見できなかった。残念な気もしたが、あれを越えるようなものがゴロゴロあった日には安心して歩けやしないので、それはそれでよしとしよう。
それ以上の散策はあきらめることにし、駅へ戻ると列車に飛び乗った。
とんでもない思い違いをしていた。
ノンカイからウドンタニまでの距離はバスで2時間弱。ウドンタニからナコンラチャシマまでもそれぐらいだと思っていたのだ。だからこそ夕方にもかかわらず移動する気になったのだが、それがとんでもないまちがいだった。スコータイやアユタヤに着いた時も夜だったが、8時とかそこらだった。今回とはわけがちがう。
ナコンラチャシマに着いたのは7時間後、深夜2時だった。定刻より2時間半ほどの遅れ。本来なら0時前ぐらいに着くはずだったが、それにしたってド深夜には変わりない。しかも、悪いことにナコンラチャシマ駅ではなく、その一つ手前のこぢんまりとした駅で降りてしまっていた。この町には駅が大小二つあったのだ。タイ鉄道には車内放送なんかないうえにあせっていたので先に止まった方で降りてしまったのだが、これがまた大失敗だった。
おーい、運ちゃんたち、どうした? お客様が着いたぞ?
・・・シーン。
右を見ても左を見ても、何もなければ誰もいない。この駅で降りたのは僕だけだった。
くそっ、やっぱりあっちがメインの駅だったか! 名前からしてそうかと思ったけど、地図で見るとこっちの方が市街中心部に近かったし、あせってたし・・・。あぁ、どうしよう。
勇気をふりしぼって歩を進めようとするのだが、そのたびにアユタヤでの記憶がよみがえり、足が動いてくれない。またあのプチ狼の群れに出くわしたら・・・。前回はうまく逃げおおせたけど、いつもかつも逃げ切れると決まったもんじゃない。もちろん悪人もこわい、けどこういう局面じゃ金で話のつく人間の方がいくらかましだ。いっそここで夜明かしするか・・・。いや、奴らは歩く。もしここまで来たら逃げ場がない。やっぱり移動するべきだ。宿を確保するべきだ。
表の様子をうかがってはすっこみ、再び顔を出してはまた戻る。そんなことを幾度となく繰り返し、いくらか夜目が利くようになってきた時。数十メートル先に見覚えのある物体のシルエットが見えた。
あっ、あれは! あんなところにサムローが!
よし、なんとかしてあそこまでたどり着ければ・・・。いや、でも運ちゃんがいるかどうか。ここからではよくわからない。行ったはいいがいませんでした、では目も当てられない。
持ち前の臆病さを発揮し、もうこの時の僕は「出歩くと確実に襲われる」と決めてかかっていた。エイリアンが潜む宇宙船のクルーはこんな気持ちなのだろう。動けない。しかし、それでは朝までここで足止めな上に安全であるという保証もない。
・・・ええい、もういい! 運ちゃんはたぶん座席で寝てるんだろう。叩き起こせばいい。いなければ自分で転がすまでよ!
意を決し、駅舎から出る。勇ましい決意とは裏腹に、足はそろそろとしか進んでくれなかった。でもバタバタと音を立てるよりはいい。気分だけは上忍のつもりで音を立てずに足を進め、影に取りつくと荷台をのぞき込んだ。
はたして、運ちゃんはいた。ぐっすりと眠っている。容赦なくバシバシ叩き起こし、そのままの勢いでまくし立てた。
「ホテル! チープ! OK!」
何がOKなのかは自分でもよくわからないが、そんなことを気にしてはいられない。しばらくは寝ぼけまなこできょとんとしていた運ちゃんだったが、ニカッと笑うとうなずきながら座席を指さした。屈託のない笑顔。たぶんこの人はいい人だ。不安がないわけじゃないけど、こんな時間にこんなところでボーッと突っ立ってるよりはましだろう。とにかく乗り込んだ。
キイ・・・キイ・・・キイ。ペダルをきしませ、サムローは寝静まった町を走る。
本当に静かだ。今まではほとんどトゥクトゥクに乗ってきたけど、こんな夜はこの乗り物もなかなかいいもんだ。 ・・・あ、あれは犬ども! やっぱりいやがったか。それもかなりの数で群れている。よかった、あそこにこれが止まってくれてて。
運ちゃんが連れてきてくれたホテルはガイド本にこそ載っていなかったが、テレビにエアコンおまけに冷蔵庫までついて500バーツ、そして従業員は口数が少ない、という素晴らしい宿だった。いい宿に泊まると旅はより楽しいものになる。やっぱりこういう仕事をしてるといい宿を知ってるんだな。助かった。
少し多めの運賃を渡すと運ちゃんはうれしそうに受け取り、ペダルをきしませて夜のなかへと消えていった。
災い転じて福となす。ピンチを乗り越え、僕の旅の心得はまた一つ増えた。
初めての町に着いたのが真夜中で、しかもその時の心拍数が200ときた日にゃ地理の把握などできようはずがない。翌日は地図を片手に町のなかを歩きまわった。
ナコンラチャシマは観光都市というよりは商業都市といったおもむきの町だった。意外と都会だな、町というよりは街だ。ゲストハウスのかわりに旅社とビジネスホテル、屋台のかわりに食堂やレストランなどが多い。
おっ。あそこの旅社の名前・・・普通大旅社? わはははは! 普通なんか大きいんかどっちやねん! よし、メモメモ・・・。
市場と同じく、町(街)歩きも好きだ。ガイド本の地図と照らし合わせながらただひたすらに歩き、おもしろいものを見つけると速攻で地図に書き込む。そうやって自分だけの、世界に一つの地図を作るのがこの上なく楽しいのだ。書き込む過程であちこち歩きまわるからその町の雰囲気などがよくわかるし、後から見ればその時にあったことも思い出せる。そして何より、何年の何月何日に自分はそこにいた、という証にもなる。未だに自分自身のアイデンティティすら確立できていない僕にとって、この「存在した証」は重要な要素でもあったのだ。
めぼしいところをチェックし終えたので、近くにあった池のほとりで休憩することにした。おあつらえ向きに木陰もある。さっき通りがかった果物屋でランブータンも購入済みだ。しかし・・・それにしても暑い。時刻は午後1時。日差しが一番きつい時間帯だ。よりによってなんでこんな時間に出歩いてるのだ僕は。頭が茹だっているようだ・・・。
まさかそんなものに遭遇するとは思ってもいなかった時、そいつは現れた。すぐそばの草むらがガサガサ揺れたかと思うとトカゲが顔を出し、そのままこっちへ歩いてきたのだ。どうやら後ろにある池へ行きたいらしい。
あー、トカゲか。でかいなぁ。2メートルぐらいか。こんな感じやったんやろなぁ、恐竜って。
と、ここでようやく暑さでぼけていた思考のピントが合った。ん? 2メートルのトカゲ? が、すぐ横に? ・・・・・ぁぁぁああああぁあああああ!!!
弾かれたように逃げ出すと、それに驚いたトカゲもダッシュで池に飛び込んだ。はぁ、はぁ、はぁ・・・。ふざけんな、でかいわ! でかすぎるわ!
動悸も治まったので池のふちに戻り、向こう岸でひなたぼっこを始めたトカゲをもう一度観察してみた。ざらざらの肌に浮かぶ黒緑と黄色の模様。ここからでもわかるほどの長い舌。もたげた頭の高さは僕のひざあたりまではあるだろう。「2メートルのトカゲ」と言葉にするとたいしたことはなさそうだが、至近距離で対面するととんでもない化け物だ。
あらためてロケーションを確認してみる。池のあたりこそちょっとした湿原になっているものの、そのまわりには寺院もあれば民家も見える。中心部から多少離れているとはいえ十分に市街地といえる場所だ。こんなとこに2メートルのトカゲがいるのか、この国は・・・。
休憩も終わり、宿へ戻る途中。さっきのことを思い起こしてみると、自分のあまりのマヌケさに笑いがこみ上げてきた。バカでかいトカゲの姿を数メートル先から認識していながら、自分のすぐそばに来るまでボーッと目で追ってただけだってんだからなぁ。しかしプチ狼にまめ雷魚にミニ恐竜、タイの動物は油断も隙もない。
などと考えていると、宿のすぐそばでゾウと遭遇した。言うまでもないが、ここは街中だ。背中にゾウ使いが乗っているところを見るとサーカスのような、というか観光用なのだろうが、車がビュンビュン走り回っている街中の路上でゾウと出くわすとは、ますますもって油断ならない。この国はこんなところもおもしろい。
翌朝。僕にしては早起きともいえる十時にホテルを出ると、町はずれにあるバスターミナルへと出発した。昨日の町歩き中、たまたま通りがかったTAT(観光案内所)でおもしろい情報を入手していたからだ。
案内所に貼ってあったポスターによるとすぐ近くにピマーイという町があるらしいのだが、なんでもその町はアンコールワットのようなクメール様式の遺跡のなかにあるのだそうだ。町のなかに存在する遺跡ではなく、遺跡のなかに存在する町。なんともミステリアスではないか。
もらったパンフレットには「ピマーイへ行ったらピマーイ揚げ麺を食べよう!」というようなことも書いてある。なんとも自信ありげな紹介文。こんなの見せられたら行かずにはいられない。
タイ最大のクメール遺跡、というくだりで必要以上の期待をしてしまったのがいけなかったようだ。ローカルバスに1時間半ほど揺られてやってきたピマーイは、ひなびているというよりはしなびていた。広い遺跡のなかにそれなりの規模の町があると思っていたら、なんのことはない。小さな遺跡のなかにそれよりさらにしょぼい町が収まっている、というだけのことだった。もちろんそんなはずはないのだろうが、町の人全員がため息をついて歩いているような気さえしてしまう。
まぁ、来てしまったものを今さらどうこう言ったところで遺跡が急にグレードアップするわけでもない。とりあえず昼飯時だ、ピマーイ揚げ麺とやらを食してやろうじゃないか。
海原雄山になった気分で麺屋台を探してみたが、タイのどこにでもあるはずの屋台すらこの町ではほとんど見かけないのだった。とほほ。大丈夫かピマーイ。
それでもあきらめきれずに狭い町内をうろうろしていると、ようやくそれっぽいレストランを発見できた。店先の立て看板にもちゃんと「Phimai fried noodle」と書かれてある。よしよし。おばちゃん、PFNいっちょう!
しばらくしておばちゃんが大儀そうに運んできたPFNは、まったくフライされていなかった。・・・本当にこれか? でもメニューを指さして選んだので注文ミスはしていないはずだ。揚げ麺が揚がってなかったら・・・ただの麺じゃないか。
こと食に関して言えば、英語は時にボキャブラリーに乏しい言語のようだ。油で揚げた本物の「揚げ物」が「fried」と表現されている一方で、チャーハン等の「炒め物」にもやはり「fried」が使われている。要するにこれは揚げ物ではなく炒め物、パッ・タイのような焼きそば風のものなのだった。
こんなところでうんちくを披露してしまったが、要するにうまければそれでいいのだ。とりあえず食ってみようじゃないか。あらためて皿の上に山盛りになったブツを観察してみる。パッ・タイと似てはいるが、この料理は麺が赤っぽい。それ以外の外見はほとんどパッ・タイと言ってしまって差し支えないほどだ。とりあえず一口。 ・・・これパッ・タイやん。いや、こののど越しはバミー(小麦粉の麺)じゃないな。クイッティオ(米粉の麺)か。んんー、ズルズル。まずくはないけど・・・微妙。まるで町の現状を象徴するかのような味だった。
首をかしげながらレストランを出た。もうこうなったら遺跡だけが楽しみ・・・なんだけど。名物がアレで町の様子がコレなのに遺跡だけがブラボー、ってことがあるのだろうか? とうてい期待はできない。じゃあこのままとんぼ返りするか? 1時間以上かけてバスで来てイマイチの昼飯だけ食って帰ると? それもあまりいい選択だとは思えない。
仕方ないか。ここを今日の予定に組み込んだ時点で負けは確定しているのだ。毒を食らわば皿まで。もうどうにでもなれ。半ばやけくそで足を北に向けた。小さい町のことだ、遺跡入り口はもうそこに見えている。
・・・・・・・・・・。
三十分後。ぐったりして遺跡を出た。なんというかその、もう、いやはや。どこをどう楽しんだらいいのかこの遺跡ったら。どこかで見たような造形プラスせせこましい面積。実は三十分のうち十分が遺跡内のトイレできばっていた時間だというのは秘密だ。
時計を見ると、この町へ来てからまだ2時間ほどしか経っていないことに気がついた。今からホテルへ戻ってもすることがない。
地図を取り出し、何かおもしろそうなものはないかと目を走らせる。 ・・・む、サインガム公園? もういいやそこで。すでに白旗を揚げている僕の決断は早かった。
予想にたがわずサインガム公園はパッとしない公園だったが、そのなかで興味を惹くものが一つだけあった。なんだろう、あれは。
たくさんのハトらしき鳥が「25バーツ」と札の貼られた鳥かごに詰め込まれ、窮屈そうに身を寄せ合っている。その隣には水の入ったタライやビニール袋があり、ハゼやらドジョウやらがこれまた群れをなして泳いでいる。その横にいるのは退屈そうにしているおばちゃん。様子からして何かの店のようだが・・・。こういうわけのわからないものに出会うのもタイのおもしろいところだ。すぐに答えを聞いてしまってはもったいない。ちょっと推理してみよう。
真っ先に思いついたのは食材屋だが・・・ちがうだろうな。20とか25バーツとかってのはこういう田舎町であれば屋台で一食食える金額。それだけの金を払ってドジョウが1匹やそこらでは割に合わない。それに食材屋が市場なんかではなく公園の池のほとりに一軒だけぽつんとあるのも不自然だ。
じゃあペット屋か。いや、それもどうかな。観賞魚店なら何度か見てきたが、そこでは色鮮やかなグッピーなんかの熱帯魚がメインだった。万事派手好みのこの国で黒や灰のドジョウやらハゼやらが受けるとは思えない。
実はこれはもっと実用的なものかもしれない。実用的なハトといえば伝書鳩だ。ということは、魚は・・・伝書魚? んなアホな。やめさせてもらうわ。もう降参。聞いてみよう。
「これって何?」
突然丸っこい物体に話しかけられたおばちゃんは面食らったようだったが、それでも返事はしてくれた。
「∑ⅳ∮/→●¶」
やはりか。こんなところで英語がそう通じるわけはない。真実は闇の中か、とあきらめかけた時。とある単語が耳に飛び込んできた。
タンブン。
ひまに飽かせてガイド本を読みあさっていた僕はそのタイ語の意味を知っていた。「徳を積む(こと)」だ。ははーん、なるほど。要するに「善行屋」だ。この生き物たち閉じこめられてかわいそうでしょ、だったらお金を払ってそこの池に、空に放してあげたらどうですかおまえら、徳が積めますよ? 来世でいい人生を送れるようになりますよ? ということだ。
そうか、そういうことか。英語は通じなかっただろうによくぞ答えをくれたものだ。やはり言葉はその場の雰囲気でなんとかなるものだ。やっと胸のつかえが取れた。それにしても・・・何の落ち度もない生き物たちを捕獲するばかりか、それを使って人の良心につけこんだ商売をするとは。あんたこそ徳を積むべきじゃないのか。とはいえ、誰だって食っていかなくてはならないのだ、そうは言うまい。しかももしかしたら、人に徳を積む機会を提供するのもそれはそれでいいことなのかもしれない。
こんないろんな動物に会える町に来たのもまた何かの縁だ。とりあえず僕も徳を積んでみることにした。25バーツを手渡し、かわりにハトを受け取る。
輪廻転生があるかどうかは僕にはわからない。でもこういうふうに生きたい、というのならある。その願をハトにかけることにした。
旅に出る前の僕なら「引きこもりが治りますように」だったかもしれない。でも、旅を続けてきた今の僕ならこうだ。ハトの頭に額をくっつけて願いを込め、大空に解き放った。
もうヒキでもオタでもなんでもいいから、これからも楽しく旅ができますように。
どこまでも青い空を、ハトは悠々と飛んでいく。願いは叶うような気がした。
次回 最終章 ニート日本へ帰る 1・静けさの前の嵐
0章 真人間、失格 | 1.旅立ち前 | コメント返信(>>52まで) | ||
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1章 バンコク・クライシス | 1.異国の洗礼 | 2.メシア現る | ||
2章 うれしはずかし二人旅 | 1.かんちがい開始 | 2.ネアカの街 チェンマイ | 3.スコータイの仏 | 4.アユタヤの人 |
3章 お別れのち再出発 | 1.かんちがい終了 | 2.僕の深夜特急 | 3.変態inノンカイ | 4.動物三昧ナコンラチャシマ |
4章 引きこもり 日本へ帰る | 1.静けさの前の嵐 | 2.羽化 | あとがき |