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 3章 お別れのち再出発

 1・かんちがい終了

 

 まゆがタイに居れるのもあとわずか。シンガポール行きに備え、バンコクに戻った。僕はといえば特に予定もなく、ついて行く必要もまたないのだが、金魚の糞のように同行した。
 ホァランポーン駅に着き、カオサン行きのバス乗り場を探していると、一人の男が声をかけてきた。政府公認観光局員とかなんとかいった身分証のようなものを首からかけてはいるが、どことなくうさん臭い。バンコクを歩いているとこういったことがよくあるのだ。
「今日が政府公認の宝石市の最終日だ、買って帰って日本で売ると儲かるぞ」
 とか、
「タイのシルクは最高だ。いい店を知っているから案内してやろう」
 などとのたまう輩がすり寄ってきて、それがまた笑ってしまうくらいガイド本に載っている詐欺師そのまんまなのだ。なので僕はそういった連中はことごとく無視してきたのだが、まゆは何を思ったか足を止め、彼らの話に耳をかたむけている。おいおい、時間の無駄じゃないのか?
 会話を終えたまゆが戻ってきた。
「53番のバスに乗ればいいんだって」
 言葉の通り、53番のバスは僕たちをカオサンへと運んでくれた。彼の言っていたことは本当だったのだ。
「なんであんな怪しい奴の話聞くんだって? とりあえず聞くだけ聞けばいいじゃん。最初から疑ってちゃなんにもならないよ。変だと思ったらついて行かなきゃいいんだし」
 とりあえず信じる、か。なるほど。僕もいつかできるようになるだろうか。

 

 それからの数日間はほとんど別行動を取った。例によって僕はまゆにくっついて行こうと思っていたのだが、「前に来たとこだし、一緒に行動する必要ないじゃん?」と言われてしまうと、それ以上食い下がることはできなかった。

 

 そして、いよいよまゆのタイ最終日、前夜。部屋の前のテラスでささやかな酒盛りをした。
「いよいよ明日か・・・」
「そうだね、なんかあっという間だったよ」
 ろうそくの灯りにまゆの影が揺れる。
 明日の今頃、まゆはいない。言いたいことは山ほどあったが、唇の隙間から漏れ出るのは
「シンガポールってどんなとこ?」
 とか、
「じゅ、渋滞あるから早めに出た方がいい」
 など、当たり障りのない言葉だけだった。ちがう、そんなことを言いたいんじゃない。この思いは、この想いだけはなんとしてでも伝えなければ。
 状況としてはチェンマイへ同行することを伝えた時と似ていたが、その重みは比べものにならなかった。右から左へ流れるだけの言葉。心ここにあらず。どうしよう? どう言おう? どうやって伝えよう? ・・・言う? 伝える? 僕が? 迷惑かけるだけじゃないのか?
 躊躇に葛藤、逡巡に混迷。ありとあらゆる迷いが胸のうちを吹き荒れた。そんな僕を現実に引き戻したのは、他ならぬまゆの一言だった。

 

「今年中に結婚するかもしれないんだ・・・」

 

 ・・・・・?
 強烈な違和感におそわれた。視界が揺らいだのは酔いのせいではない。その正体に気がついたからだ。それは「現実げんじつ」だった。まゆにはもうすぐ結婚するかもしれない彼氏がいる、という現実だ。
 のろのろとまゆの方に顔を向ける。僕がさっき何を言おうとしていたか、彼女は察していたのだろう。か細いオレンジの光に横顔を照らされ、まゆは目を合わせない。口を開かない。
 しばらく沈黙した後、まゆは知らなかった事実をぽつぽつと語り始めた。妻子ある男性と付き合っていること。離婚するから一緒になろうと言われていること。3年ほど関係を続けていること・・・。想像すらしていなかった事実が淡々と並べられた。そして、僕に関しては、英語はできない、旅の知識はぜんぜんない、なにかと頼ってくる。ということで、できの悪い弟みたいに思っていた、男としては見ていなかった。とのことだった。
 男女の機微はおろか、人づきあいそのものが下手な世間知らず。良くいえば純粋、悪く言えば――引きこもり――。すべての思考が停止し、僕は世界を理解できなかった。
 どれぐらい経ったのか、気がつくと独りになっていた。ろうそくも燃え尽きている。まゆは部屋へ戻ったらしい。ヒューズが焼け落ちるように、感情のスイッチはすべてオフになっていた。半ば放心状態のまま、僕もまた部屋へ引っ込んだ。

 

 よく眠れないまま迎えた朝。ベッドを下りて最初にしたことは、荷物をまとめることだった。彼女の旅立ちを見送る気になどなれなかった。このまま顔を合わさず消えよう。何かに追い立てられるように荷造りをし、部屋を出・・・たところでまゆとはち合わせてしまった。待っていたのかもしれない。
「・・・・・」
「・・・・・」
 言葉が出ない。言うべき言葉が見つからない。それはまゆも同じようだった。
「行くわ」
 なんとか絞り出した。短い言葉だったが、なぜ、どこへ行こうとしているのかはすぐに伝わったようだ。
「・・・そう」
 短い答えが返ってきた。
 まゆを忘れるため、一刻も早く彼女のいないところへ。今までの礼も言わず、僕は立ち去ろうとした。
「これ・・・」
 その声に振り返ると、封筒のようなものを差し出すまゆの手があった。どうしようか迷ったがとりあえず受け取ることにし、ザックのポケットにねじ込んだ。
 無言のまま、彼女は宿の門のところまでついてきた。門を出、閉めようと振り返ったほんの一瞬。少しだけ目が合った。申し訳なさそうな、それでいながら、どこか残念そうな表情が隙間からのぞく。
 そして、門は閉じられた。

 

 何も考えられないまま転がり込んだ、バンコク中心部の小さなホテル。今までの宿よりはいくぶん小ぎれいなベッドに這いつくばりながら、手渡された封筒を開けてみた。
 そこにはカラフルなペンで書かれたイラストカードが入っていた。
『今までありがとう。残りの旅、気をつけて楽しんでね』
 去り際、僕は自分のことでいっぱいで、何も言えなかった。彼女のこれからなど何も考えられなかった。なのに、まゆはそんな僕を最後まで気遣ってくれていたのだ。
 涙が止まらなかった。

 

 それからの何日かは、再びホテルの部屋に閉じこもって過ごした。まゆはもしかしたら僕のことを気に入ってくれてるんじゃないか、というのはやはりかんちがいだった。彼女は悪くない。身のほどを知らず己の分際をわきまえず、人並みのイベントを経験しようとした僕が悪いのだ。
 それがどんな喪男であっても、マンガやギャルゲーの主人公には遅い春が訪れるのが予定調和になっている。それらに己の姿を重ね合わせ、年中冬将軍の僕は溜飲を下げてきた。しかしそれは当然虚構バーチャルでしかなく、現実リアルの自分に吹き付ける風はやはり木枯らしである。
 いつものことだ、わかってはいた。わかってはいたし慣れてもいたつもりだったが、不倫などという、人間のドロドロした営みに関わることのなかった者にとって、今回起こったことは防御のしようもない未曾有の衝撃だった。空前絶後の大氷河期。旅するための情熱もここまでの旅で積み上げてきた自信もすべて凍てつき、理由こそちがえどこの国に来た当初と同じように縮こまり、動けなくなっていた。僕の人生の主人公である僕に春が訪れる気配はみじんもなかった。

 

 どういうものなんですか、「人間の生活」って?

 

 夜。落ち込んでたって腹は減る。死なないために、未練がましく生をつなぐために。いつものナショナルスタジアム脇の屋台街へめしを食いに出かけた。

屋台街  

 そこに息づく者の心情など関係なく、この街はいつだってエネルギッシュだ。林立する高層ビル。足早に行き交うタイ人たち。忙しげに行き交う車とバイクとトゥクトゥク。いつも通りの大渋滞。そしていつもの屋台はいつものように繁盛していた。
 いつものテーブルに座りいつもの料理を待っていると、いつもはいない日本人がいた。20過ぎといったところのようだが、年の割に落ち着いた感じのする青年だった。
 まゆと別れてからというもの、僕の口はただ咀嚼するためだけの器官になっていた。この時もただ黙々と糧食を食いしばっていたのだが、そんな僕の気も知らずに彼は話しかけてきた。
「一人で来たんですか?」
 おまえはアホかと。馬鹿かと。空気を読めよと。なんでよりによってこのタイミングでそんなどうでもいいことについて話しかけてくるんだ? それは今どうしても知りたい情報か? そういや昔のバイト先にもいたな、散髪行った次の日には必ず「お、散髪行ってきたんか?」と聞いてくる阿呆が。一目見ればわかるだろうに、いちいち確認を取らないと気が済まんのか? それとも「いや、起きたら短くなってまして」とでも答えれば満足なのか? 頼むからほっといて。
「・・・うん」
 とはいえ、人に話しかけられて無視できる厚かましさもないので返事ぐらいはする。それで受け入れられたとでも思ったのだろう、横浜から来たという彼は堰を切ったように次々と言葉をぶつけてきた。どうでもいいことをよくしゃべってくれる。適当に生返事を返していたが、そのうち彼は妙なことを言い出した。そして、その一言が第二の分岐点だった。
「今からナナへ行こうと思ってるんですけど、行きません?」
「なな?」
 なんだそれは。場所の名前のようだが。
「ええ、ナナ」
「そこに何かあるの?」
「え、知らないんですか? ゴーゴーバーですよ」
 また謎の単語が出てきた。バーというからには酒を飲むところだろうが、その前のゴーゴーってのがわからない。
「ゴーゴーバー?」
「ゴーゴーバーってのはですね・・・」
 横浜くんの説明は衝撃的なものだった。バンコクにはナナという場所があり、そこにはゴーゴーバーと呼ばれる施設が集まっている。ゴーゴーバーのなかでは半裸の女の子たちが踊っていて、酒を飲みながらその肢体を観賞することができる。気に入った娘がいれば交渉次第で連れ出し、ホテルへ行くこともできる。要するに風俗なのだった。タイの売春ってのはひと昔前日本でも問題になったように思うが、そうか、今でもあるのか。
 風俗など行ったことがないし、こんな話を聞いても普段なら行こうとは思わなかっただろうが、この時はタイミングがタイミングだった。落ち込みもしていれば、ムシャクシャもムカムカもムラムラもしていた。知るか、行ってまえ。
「・・・行く」
「決まりですね」

 

 高架鉄道、BTSをナナ駅で降り、広いスクンビット通りを彼の先導で歩く。ここらあたりはバンコクの中心部とあってカオサン周辺にはないような近代的建物が多いが、ごたごたした雰囲気はさほど変わらない。タイという国のなかにバンコクという別の国があるようだ、とガイド本などで紹介されている理由が、地方の町を見てきただけに余計に納得できた。
 5分ほど歩いただろうか。彼はこちらを振り返って言った。
「ここですよ」
 そこは猥雑なバンコクにあってさらに猥雑、そして淫靡な場所だった。
 敷地入り口を開口部にしたコの字型の建物のそこかしこにいかにも怪しげなネオンが咲き乱れ、あちこちにあるドアからひっきりなしに人が出入りしている。呆けている僕の横を、手をつないだタイ人女性と初老の白人男性が通り過ぎていった。
 我に返って周囲を見まわす。まわりはそんな人ばかりだ。若い女、若い男、若い女、中年の男、若い女、初老の男。女はすべてタイ人のようだが、男にはいろいろあって、白人にタイ人、それに同胞、日本人もけっこう見かける。どこからか聞こえてくる言葉には中国語や韓国語も混じる。なかには女の姿をした男もいる。
 まさに魑魅魍魎、百鬼夜行の世界。僕は完全に圧倒されていた。
「どうしたんですか?」
 いっぱいいっぱいやねん、見てわからんか?
「とりあえず入りましょうか」
 そう言って、彼は一軒のゴーゴーバーに入っていった。
 そこはまた、表に輪をかけたような狂騒ぶりだった。照明のしぼられた薄暗い店内のあちこちに浮かぶのは、狭いお立ち台の上で体をくねらせるようにして踊っている、あられもない姿をした女たち。それらを囲むように並べられたいすにだらしなく腰かけ、ビール片手に脂っこい視線を女の肌にからませる男たち。僕の知らない世界が展開されていた。横浜くんはというと慣れた様子でビールを頼み、すっかりリラックスしきっている。
 目のやり場がなかった。人と目を合わせるのは苦手だ。しかし、困ったことにここの女性たちは積極的に目を合わせようとしてくるのだ。自分を買ってもらえなければ商売にならないのだからそれは当然なのだろうが、それが彼女たちの半裸の肢体と併せて視線の送り先に困らせるのだ。が、男の生理として自然と目は行ってしまう。目を合わされる。あわてて視線をそらす。その繰り返しだった。居心地のいいような悪いような・・・。
 前触れもなく隣のいすがきし軋んだ。
「ハイ。こんばんは」
 愛嬌のある明るい娘が話しかけてきた。うわっ、売り込みだ! どうしよう!
 助け船を求め、迷える子羊のような視線を横浜くんに向ける。が、彼も彼で踊り子の一人と話し込んでいる。くっ! この場は自力でしのがなければ・・・・!
 こうして闘いの幕が切って落とされた。とは言っても、押しの一手の彼女に対してこちらは逃げの一手。なんとも情けない闘いだが。
「どこから来たの?」
「にっ日本」
「私も日本へ行きたい。連れてって♪」
 初球でツーストライクに追い込まれた! なぜなら僕はノーと言えない日本人だからだ。というかありえない。なぜ初対面から10秒の外人にむかってそんなスットンキョーなリクエストができるのだ。この空間は交わされる会話までがどこかおかしい。
「いや、う~ん、その・・・」
 彼女は意味のない言葉をたれ流す僕の手を取り、おねだりをするようにぶらぶらさせている。ああっ、やめてくれ。そんな仕草をされても、最終的にはノーと言わなければならないのだから。
「ねぇ、連れてって」
「む、むむむ・・・無理っ!」
 この時ばかりは、あいまいな言い回しができない自分の英語力に助けられた。ボキャブラリーがないゆえにきっぱりと断れたのだ。もし「前向きに検討します」的な言い方ができようものなら、僕はさらなる窮地に追い込まれていただろう。
 断られた彼女はかわいく泣きまねををしている。こいつ、男のストライクゾーンを知り尽くしてやがる!
 彼女は次の手に出た。泣きまねをやめ、こんなことを言い出したのだ。
「冷房が効きすぎてて寒いの。ここから連れ出して」
 なんという肉食系。これのどこが交渉次第なんだ。押し売りじゃないか。そんな格好じゃ寒いのは事実だろうが、さすが百戦錬磨。この娘は先ほどのやり取りや表情から僕の甘さを見抜いたのだろう。これはカモれる、と。
「・・・・・」
 言葉が出ない。一難去ってまた一難。今度はさっきのような無茶なリクエストにノーと言うのとはわけがちがう。これはいくらかの金を出しさえすれば今すぐかなえられる要求なのだ。しかし僕はヤケ自棄と好奇心で来てみただけの童貞であって、そこから先どうしていいかわからないというのに、連れ出す気など最初っからない。かといってそれをそのまま伝えると「冷やかしで来ました」と言わんばかりではないか。ううっ。
「アイラブユー」
 いやいや、愛してるって言われても。以前の僕なら舞い上がっていたかもしれない。が、かんちがいから痛い目に遭ったのはほんの数日前だ。自慢じゃないがさらに過去には高額ローンを組む羽目にまでなっている。そのありえない一言はかえって余裕を取り戻させた。ふふん、その手は食わんぞ。その手は食わんが、さてどう答えたものか。
 うだうだと考え込んでいる姿を、どうするか迷っていると思ったのだろう。彼女はついにリーサルウェポンを解き放った。
 僕の手を取り、ビキニのブラに導き入れたのだ!
 ぁおう! なんでそうなるねん! ぶっ、この感触は! こ、これが噂の! ほ、本当にあるんだ!
 取り戻したはずの余裕は完全に砕け散った。ガガガピー、ガガ・・・ボン! 頭の回線がショートし、再び狼狽モードに突入する。傍から見ればさぞかし滑稽なシーンだっただろう。
 正確に言えば反応しなかったのではなく反応できなかったのだが、彼女はそんなザマの僕を脈なしと判断したようだ。にこにこ顔は突如能面のような無表情に切り替わった。それはまるで人だったものがいきなり人ではないものに変わったような、背筋の冷たくなるような変化だった。彼女は死者の顔のまま席を立つと、こちらを振り返りもせず去っていった。
 しばらくの間、僕はそのままの姿勢で固まっていた。去り際に見せた無表情こそが彼女の本心のように思えた。それを隠してあれだけの笑顔を見せていたのだろうに、僕は脳天気にも「明るい娘だな」などと思っていたのだ。どうやら嘘を嘘と見抜けない人は、ゴーゴーバーの利用は難しいようだ。
 遅すぎる助け船がようやくやってきた。
「元気ないッスね。ここはいい娘いないし、いったん出ましょうか」
 ありがとう、気を遣ってくれて。でも今度から助け船を出すなら手こぎのボートはやめて、某国の工作船ぐらい速いやつでよろしく。
 中庭の青空バーへ移動することにした。屋外なので当然半裸ダンシングはやっておらず、騒がしくはあるものの店内よりは落ち着ける。
「ホント、元気ないッスね。大丈夫ッスか?」
 酒がまわってきたのか、横浜くんの言葉遣いがちょっと怪しい。
「ああ、うん・・・。なんか、合わんわ。こういうとこ」
 まばゆいネオンが目にしみる。香水の芳香が頭蓋を締めつける。降り注ぐ喧噪が耳を責める。ちょっとケバいけど、ここだって珊瑚礁だ。深海魚が来るべき場所ではなかったのだ。
 中庭の片隅には、タイのあちこちで見かける小さな祠ほこらがあった。どこの祠でもそうであるように、ここのものも色鮮やかに飾りつけられ、供え物がたくさん供えられている。出勤してきた普段着姿の女の子たちがかなりの割合で立ち止まり、手を合わせ、そしてそそくさとバーに入ってゆく。タイ人は本当に信心深い。男に買われる時間を前に、彼女たちは何を祈願していたのだろう。
 視線に気づいた横浜くんが話しかけてきた。
「タイ人って信心深いですよね。だぁからこういった場所がなくならないんスよ」
「へ? どういうこと?」
「タイの仏教じゃ輪廻転生を信じてて、いいことをすればいい身分になって生まれ変われるってことになってるらしんスよ。で、親孝行することは最大の善行になるらしくて、だからこういったところへ働きに来て、実家へ仕送りする娘が多いらしいス。親が病気とかなんだとか、いろいろ聞きますよ」
「へぇ、詳しいね」
「いろんなとこから聞きかじっただけッスけどね」
『すまないねぇ、おみつ』『それは言わない約束よ、おとっつぁん』。時代劇の一幕が脳裏に浮かぶ。21世紀になったというのに、僕の知らないところではそんなことが起こっていたのか。
「でもそういうのはまだましでね・・・」
 まだ何かあるのか。
「ひどい娘になると、借金のカタとして親に売られてきた、ってのもあるらしいんスよ。しかもその借金を払い終わりそうになった頃に田舎から親が来てまた借金してって、何年も何十年もこの世界から抜けられないとか・・・」
「・・・・・」
 この男は何を思ってそんな話をしてくれやがるのだろうか。ただでさえブルーになっているというのに、そんな悲しい話を聞かせてくれてどうしようというのだ。そういえばさっきの店にもひときわ悲しそうな、この世の終わりみたいな顔をしている娘が何人かいた。あの娘たちがそうかもしれない。だとしたら何年いるんだろう。いつやめれるんだろう。
 そんなことを考えていると、いよいよ居心地が悪くなってきた。僕一人の力でなんとかできる問題ではないしよく知りもしないタイの習慣にケチをつけるつもりもないが、それでもここにいると自分がものすごく悪いことに荷担しているような気がして仕方がなかった。遊び一つ満足にできないのだ、僕は。
 ・・・結局何しにきたんだ。もう帰ろう。
 横浜くんにそう伝えると、ナナを後にした。

 

 ナナ駅に着くと、BTSの運行はすでに終わっていた。引きこもりには終電を意識する習慣も必要もない。当然の結果。とぼとぼと階段を下りる。
 こうなるとタクシーかトゥクトゥクしかないが、密室になるタクシーをよりによってこんな時間に使おうと思うだけの度胸などない。スクンビット通りをホテル方面へ歩きながら、流しのトゥクトゥクが通りがかるのを待った。
 深夜にもかかわらず交通量はそれなりに多い。が、肝心のトゥクトゥクはなかなか来てくれない。しばらくはそのまま歩き続けたが、だんだんと人通りが少なくなるにつれて足下から恐怖がせり上がってきた。アユタヤでの一件もある、深夜徘徊は避けるべきだ。 そうだ、さっきコンビニがあった。あそこなら明るいし、店内には人もいる。通りもチェックできる。犬の姿もなかった。あそこの前で待とう。そう考え、少し手前のコンビニまで戻り、入り口近くに腰をおろした。
 涼しいなぁ、今日は。オレンジ色の街灯も暖かい感じがしていい。不安はかなりやわらいだ。しかしだ。トゥクトゥクはいつになったら来るのだ。たまに通りがかるトゥクトゥクは時間のせいもあるのか目の前をきら星のようなスピードで流れ去るばかりで、呼び止めようとしても全然間に合わない。そのTAXIランプはお飾りかってんだ。
 報われない短距離ダッシュを何度か繰り返しているうちに、次第にさっき飲んだビールの酔いがまわってきた。おほっ? まっすぐに歩けんぞ? そういえばけっこう飲んだ、かな、他にすることもなかったし、あははは。何やってもうまくいかんな。 ・・・気分悪い。うっ、吐きそう。ちょっと、横に・・・。コンビニ前の路上にダウンする。
 ヘボい自分を変えたくて来た異国で知り合った女にふられ、ヤケで行った風俗でまたへこみ、飲めない酒に呑まれて汚い路上に寝転がる。どうしようもないほどみじめだった。暴れ回りたいような衝動に駆られたが、暴れるどころか足腰すら立たない。情けねぇ。
 虫のように丸まったまま、嵐が過ぎるのをひたすら待つ。排ガスくさい風も薄汚れた地面も、ひんやりとしていて今ばかりは気持ちいい。何より、みじめな僕にぴったりだ。
 自虐の境地に達し、偽りの平安が訪れる。意識は暗い闇へと沈んでいった。

 

 体の揺れで目がさめた。
 開いたまぶたの先にはビジネスマン風の男性がいた。
「こんなところで寝ちゃいけない。危ないよ」
 おそらくはそんな言葉を残し、彼は去っていった。
「・・・ありがとう」
 とりあえず礼は言っておいたが、起き抜けに不意をつかれた頭は少々混乱していた。時計を見る。眠っていたのは10分かそこらのようだ。ん、眠っていた? ・・・思い出した。ナナから帰る途中で力尽きたのだった。
 そうだ、財布は? ・・・ある。
 ああっ、パスポートが! ・・・ある。
 み、右手を怪我して・・・いない。
 ・・・・・・・・・・。
 ふぅー、助かった。酒が入っていたとはいえ、よくもまぁこんなところで寝てたもんだ。どこでも寝れるというのはおそろしい。
 それにしても・・・以外と安全じゃないか、タイ。
 日本にいた時は外国、それも東南アジアともなるともっとこわい場所だと思っていた。盗みに殺しにゆすりにたかり、ありとあらゆる犯罪の見本市のような場所だと。それがどうだ、10分ほどなら真夜中の路上で寝てもなんともない。次やったらどうなるかはわからないが、少なくとも百発百中でやられるわけではない、というのは実証できた(するつもりはなかったが)。それどころか、こわいはずの現地人が助け起こしてくれたのだ。彼が起こしてくれなかったらどうなっていたことか。それこそ犯罪に巻き込まれていたかもしれない。
 もし日本の路上で外人が寝っ転がっているのを見たら、僕だったら起こしてやるだろうか。いや、ほっとくに決まってる。面倒はゴメンだ。そう考えると、さっきの人はなんていい人なんだろう。人の情けが荒んだ心にしみる。
 はっ! もしかしたら横浜くんもそうだったのかもしれない。表情や口ぶりから僕の置かれた立場に気づいて、憂さ晴らしをさせてやろうとあんな話を持ちかけて・・・きたわけじゃないだろな、あいつのあの馴染みようでは。
 でも彼のおかげで知らなかった世界をのぞき見ることができた。そのせいでさらに落ち込みはしたけど、通りすがりの人の力も借りて這い上がろうとする気力もわいた。一人でならどうだっただろう。いつ立ち直れただろうか。いや、立ち直るどころか日本へ帰ろうとしていたかもしれない。ここまでの旅でつかみかけていたものを手放して。わからないもんだな、何がどこでどうなるかなんて。
 もしかして人間って、現実リアルって思ってたより楽しいのかな。
 ようやくつかまえたトゥクトゥクに揺られながら、スコータイの市場で思い浮かんだ考えを反芻した。

 

次回 3章 お別れのち再出発 2・僕の深夜特急

 
0章 真人間、失格 1.旅立ち前     コメント返信(>>52まで)
1章 バンコク・クライシス 1.異国の洗礼 2.メシア現る    
2章 うれしはずかし二人旅 1.かんちがい開始 2.ネアカの街 チェンマイ 3.スコータイの仏 4.アユタヤの人
3章 お別れのち再出発 1.かんちがい終了 2.僕の深夜特急 3.変態inノンカイ 4.動物三昧ナコンラチャシマ
4章 引きこもり 日本へ帰る 1.静けさの前の嵐 2.羽化   あとがき
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